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慈悲愛花

そういえば、小説を書きました。

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 長く降り続いた雨はやんだはずなのに、それでもまだ空はまだ暗いまま。ぼくは駅前のロータリーから動くことさえできないまま遠くで「駆け込み乗車はおやめください」という声だけを聞いている。止まった体と煙を眺めることもできないまま、ぼくはただ呆然と駅に降りていた。
 次第に現実へと引き戻される。急行の停まる駅。電車は音を消す。思い出すのは、電車が遠ざかって行く音と、すすり泣く声と憎しみと哀れみが重なった目。弔うことさえ許されぬまま、ぼくは遠巻きで眺めることさえもできない。大きな写真立てにあの人の写真。黒い外套のような服を着た偉い人たち。ぼくという存在をあの人という世界から消すために、周囲は躍起になっていた。まるで最初から存在していなかったかのように。だからなのだろう。ぼくはまだ実感さえできないままで。
 迎えには誰も来なかった。たった一人で向かう先へと歩き、そしてぼくは一人で生きていく必要があった。
 あれから、世界は灰色だ。

 どうして悲しい顔をしているの?
 声がした。辺りは暗くなっていて、先ほどまで感じていた電車の音さえ感じない。まるで一瞬にして暗闇に引きずり込まれたかのような感覚に、ぼくは驚くことさえできないままで。何かの手がぼくの頬を触れる。ようやく姿をとらえた。手は湿っていて、冷たくて。透き通るような白い肌。それ以外には何も感じない世界。体温さえ感じないほどに。夢か現かさえ分からない中で、続けて感じられたのは流れていくような水の感触。
 白のワンピース、すらりと伸びた足、記憶にないのはぼやける顔だけ。
 かわいそうに、辛いことがあったのね。左手が触れる。
 顔だけが、滲む。涙は流れないのに。目を凝らしても、顔がぼやける。瞬間的に白い花が浮かんだ。顔が近づく。花の像が結ばれ、ぼくは花弁に顔を埋めるようにして少女からの唇を受け入れる。
 どろりと、世界が歪む中で。世界と少女が消えていく。消える間際、押し付けられるように重くなる腕で口を拭う。微かな甘み。

 バスの中で我に返った。

 畑と家が立ち並んでいることに気が付く。口に残った、蜜の味が消えている。
 窓の外を見ると、小さく雨が降り始めていて。さっきまで見ていた夢を溶けていくのが、良く分かる。
 本当は夢と認めたくないのに、記憶がこぼれる。緑に世界が染まる。あの世界と同じように。どうして世界と分かったのだろうというのが、思い出せないまま灰色を纏い、世界は緑に染まる。
 あれからどれくらい経っただろうか。ぼくはまだ生きていて、あの人はもう死んでいて。今でも鮮烈に覚えているあのガソリンのような色をしていた空と、鮮血に染まった地面だけが強くて。それから世界は灰色だ。
 寝起きなのか、それとも他に何かがあるのか。確実にぼくの中で質感と唇の柔らかさ。それらが合わさって、嘘偽りのない姿であることを、ただ確かに伝えているようで。夢ではないと抗っている。右手で頭を抱えながら、左側に見える窓の外へと視線を送る。緑はさっきよりも濃くなっている。
 ぼやける記憶の中で思い返す。少女は美しかった。ぼくとは、あまりにも不釣り合いなほど。記憶が褪せていく。それなのに、手の冷たさだけが鮮烈で。

 あなたの傷は、他の人と比べたら、確かに大したものではないかもしれない。何よりも失ったことを悲しむ人は多くいるのだから。何かで合成されたかのような音が、ぼくの耳を突く。声は耳に障り、頭が痛くなる。だけれど透き通るようで。
 でも、あなたにとっては悲しいこと。全てひっくり返されたとしても起こってほしくなかったことだった。
 人の声とは思えない少女の姿は怒りに、悲しみに、そして心からの愛に満ちていて。像が結ばれ始める。右目に白い花、そして幼い女の肢体。二つ結びにされたそこにはあの人と同じような清らかさしか知らないような見た目になる。
 なのに表情が、姿が。先ほどよりもうらぶれているのは、気のせいか。
 そう。大したことじゃない、と笑う。そう、大したことではね。
 だから何を言われてもこらえなければいけない、うじうじ引きずっていてはいけない、前を見て歩き出さなければいけない。分かっているんだよ。
 嘘ね。
 さえぎるように少女は言葉をこぼす。
 あなたは状況に陶酔している。そうすることこそが、何よりの快感だから。
 言葉が頭蓋を打つ。留まるということで、勝手に陶酔しているだけ。それはただの遊びでしかない。
 端々から、チクリと刺されるような痛みを覚える。分かっている。心の奥をつかまれたような、むずがゆさにいら立つ。
 知っていた。ぼくのものにならないことを。
 知っていた。それでも好きだったということ。
 知っていた。ぼくがしたことは許されることではないということ。
 だから、一瞬でぼくはあの人のことを永遠にした。銀色のそれを突き刺して。赤く散った液体。見開かれた目。ガソリンを燃やしたような夕焼け。
 そうしないと、横にいるのは、ぼくよりも立派で、存在を大きく認めてくれる人だから。
 未来永劫、ぼくは窓の外で誰かと踊るのを見ていることしかできなくて。ならば、ぼくが永遠にすればいい。
 そうしないとありきたりじゃないか、結末が。そう呟く。
 それに酔うしか無くて。一人の世界で、ぼくは何をすればいいのかさえ分からなくて。姿がかすんでいく。最低ね、という言葉を残したまま。少女は踵を返して、森の中へと消えていく。

 バスは参道の前に止まる。
 賑わいは無く、手前のお土産屋さんが電気を灯していた。店はそれ以外に開いておらず、多くある店の数々がまるで幻にでも飲み込まれたかのようにしんと姿を留めていた。遠くにうっそうと生い茂る緑がぼくの世界を存分に満たす。
 まだ、好きだ。ぼくは思う。だけれど、それは叶わない。会いたいからと口実に誘った映画も、ただぼくだけがはしゃいでいた日々も。あの日、ぼくの知らない顔をして歩いていた男も。絶望と同時に飲んだ鏡月のゆず味も。全てが繋がって、あの日ぼくに電車の向こう側でぺこりと下げた頭が鮮烈に残る。
 バスが走り去る。受け入れられない自分のまま、ただぼくは立ち尽くしていた。当たりを見渡す。緑色と灰色が鮮烈に残り、参道へと繋がる道が見える。
 そして雨は降りそうで降らないまま、湿気だけを留める。
 早くも店じまいしている店を眺めながら参道を登り、境内を歩く。元々何かを信じる趣味はない。けれど、縋るように祈った。決して戻ることがない、あの日の赤色の空を思い出しながら。

 また来たね。目を開けて声のする方へと振り向いた。口ぶりから非難の言葉は何もない。すっかりと荒れ果てている。少女もまた、すらりと伸びた足にも傷がつき、白のワンピースもまた所々が汚れていて。右目の花以外はとてつもなくくたびれた様を見せていた。
 少女は苦く笑ってぼくに伝える。
 大したことではないよ。大丈夫。
 嘘をつくなよ。言葉がこぼれた。きみはそんなことは言わないと。傷つくことさえ、悲しむことさえ、楽しめるはずないじゃないかと。下を向いて。
 なぜそんなことが分かる?
 鋭利だった。感情的で突き刺す力が言葉に満ちている。全てを突き付けられていた。あの日ぼくに電車の向こう側でぺこりと下げた頭。あれはぼくと結ばれることなど無いことを指し示すもので、ぼくよりも大切にしたい人がいるからこそで。あの人なりの精いっぱいの誠意で、敬意で。ぼくはただそれを蔑ろにしただけで。
 その姿、顔。君は、泣きたかった。そう思ったんだ。
 刹那、大きくぼくへと近寄った少女は右手でぼくの胸を指した。
 水が湧き上がるように弾け、ぼくの中へと冷たく、どこか温かく染みだす。景色がにじみ、少女の顔がまた、歪み始める。目からとめどなく、溢れる。突き付けられる。ぼくはもう戻ることさえできないような大きな過ちを犯しているのだということを。そしてそれは、もう取り戻すことなど一切できないということを。
 あなたは、その悲しみを抱えて生きるの。少女が頬に触れる。水がしみこむように入ってきて、景色をぼやけさせていく。
 さあ、お乱れ。
 柔らかく、甘い口づけ。次第に元の世界へと引き戻されそうになっている中で、口を拭う。蜜だった。また、体中が重くなる。

 終わったはずなのに、縋りたかった。今なら、泣けるのだろうか?
 湿った境内を抜けて、やがて光のある所へと出る。
 心に押しとどめていても、留まる。酔いしれたまま、踊り狂うしか無い。嫌気がさす。どうしようもない「今」に、それでも前へと踏み出せないままで。
 柔らかい感触がしっかりと残ったまま、ただ呆然と立ったまま。赤い色した夕焼けが暗闇になって行く中で、ぼくはまだ呆然と立ち尽くしたままで。
 頭が熱におかされているような感じになり、生あくびが止まらない。眠ってしまえば、全てが解決するかもしれないと思い、あの人を見ていた。ああ、このまま逃げてしまえば良いんだと屋上のフェンスを登ろうとした。
 だけれど、階段を登ってくる音が聴こえて、ぼくに意味が与えられた。

 湧き上がる水をただ眺める。境内はがらんとしている。ぼくに湧き上がる水はあるだろうか。それとも、枯れてしまったのだろうか。
 分からない。水は雨がたまり、土に染み込み、湧き出てくる。ぼくはただ素通りしていく。だから、水の流れる音に身を委ねる。

 もう会えないと思ったのに。ただ、どうやら本当に最後のようね。
 目をぼくから背けながら、少女は笑う。こんなぼくでも悲しんでくれるのかい、問うとあなたは今誰よりも悲しんでいる。ならば私が誰よりも悲しんであげる。言葉が返される。
 どうやら、泣けないみたいだ。こぼすと、大丈夫。と優しく少女はぼくを抱きしめる。
 荒れ果てていた世界は整っていた。緑色の葉、白い服を纏った少女はぼくの耳元で言葉を紡ぐ。刹那、辺りには色とりどりの美しい花々が咲き乱れる。緑だけで満たされた世界から急激に色彩が露になる。離れ、また冷たい感触がぼくに触れられる。
 何やら全てが終わったようにも感じられて、次第に何か不要な物全てが体中から抜け出てくるような。そんな感触を覚える。猫背で、痩せこけて。醜い様のぼくが、像を結んだ。こんなに醜いぼくでも、かい?
 問うと、首を横に振る。
 あなたはもう、醜くない。あなたには私がいるのだから。だからあなたの代わりに、私が泣いてあげる。だから、私の代わりに愛を貫いて。
 両の頬に冷たい感触。うつむいて、微笑む。
 できるだろうか。大丈夫よ。あなたは大きく間違えた。だからもう、あなたは誰かを愛することができるの。私がいつでも見ているから。きっと。他愛もない会話に、いよいよ最後を感じ取る。
 寂しさに駆られる。いつかまた、遠い時へと辿り着いたら、私と踊ってくださいな。
 つ、と右目の花から涙のように蜜が流れた。別れの涙のように。なめとると、また口づけをする。
 もちろんだよ。雨が差し込む。少女は冷たいのに、温い雨に次第に二人は融けあうように抱きあう。別離の刹那。
 いつか、また。耳に言葉がふわりと。

 夕暮れが、すぐそこに来ていた。あの時と同じような夕暮れだった。

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後日解題できればと思います。それではまた。

そういえば、出版しました。良ければどうぞ。


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