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みどり

ようやっと人に見せられるくらいにはなったので、noteに乗っけておきます。

2月8日修正。

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 事実がすぐそこに突き付けられた。
 スマートフォンの画面が明るくなるや否や確認できたそれは、二人のこれからを報告する動画。そこに寄り添っていたのは、細身で穏やかそうな顔をしている男で、幸せそうな顔でミズキがその横に座っていた。決して気取らず、二人だけで感謝を噛みしめながら語る挨拶。
 画面の向こうでは、少し暗めな暖色系の明かりが二人を包んでいた。それを布団の中から見ているぼくには、当たり前のように何もない。ただ、布団の横にいたはずのミズキとの最後の日を思い返しては、そういえばあの日もただ白い壁だけが妙に印象に残っていた事を思い出す。それが目に焼き付いたまま。今でも、それは何一つ変わっていない。
 ミズキとの関係はそれくらい極めてありふれていて、呆気なく終わってしまった。まるで日常の中で「おはよう」と「おやすみ」とあいさつをするくらい、あっさりと。その結末は、あまりにも突発的でその瞬間に何も感じることなく終焉を迎えたにもかかわらず、ぼくは今でもこうして引きずりつづけていていた半年前から、今まで。
 まだ少しだけ寒気を感じていた朝、ワンルームの白い壁だけが目に焼き付いていて。
「ねえ」
「どうしたの」
 真っ先に思い出すのはどうしてか白い壁。そして、ミズキの素肌。その白色はぼくのために手入れされたものでないということをあの日知った。
「別れてほしいの」
「どうして」
 反射的に言葉が出てから、ぼくの時間が止まった。その瞬間のことは、とてつもなく良く覚えている。遠くに見える重たい扉の前にはぼくのくたびれたコンバースのスニーカーと、彼女の黒色のショートブーツ。近くには脱ぎ捨てられたように着てもらうのを待っているミズキのニット生地の服。その横にはぼくが寝る前まで着ていたロンTとジーンズ。窓の外には綺麗な青空と白い雲がのんきに浮かんでいる。ミズキに言われたそれに対して、ぼくは世界に映る物だけを理解する事だけで精いっぱいだった。
「一緒になりたい人が出来たの」
 そう言われて、ぼくは固まったままのパソコンを強制終了させられるかのように、突然の終わりを告げられた。反論の余地など一つも無いまま。言葉を絞り出すしか無かった。
「そうか」
 ふざけるなよ、なんて言ってぼくが何かを言い返す余地など最初から無い。別れてほしい、なんて言っているけれどそれは願望では無い。もうすでに既定路線として進められている。ぼくには引き止められる力など最初からなかった。白い天井と壁、ミズキのためにと綺麗にした部屋はただぼくが徒に時間を費やしただけに過ぎなかった。ぼくがそうか、と伝えてから「でも、大切な人に変わりはないから」と伝えた。それが真実なのかどうか、言葉だけでは分からない。だけれど、ぼくはミズキが嘘をついている、ということがなんとなく分かっていた。どことなく言葉がよそよそしかった。
 そして、それを問い詰めるということが無意味であることも、ぼくは分かっていたのだ。
 それから着替えて、靴を履いて。最後、ドアを閉めた音。別れの言葉はあったかどうか。落ち込むことさえないまま、まるでまた来てくれるのではないか、という訳の分からない期待さえ抱いてしまうほど、流れるような動きで彼女はぼくの前から居なくなった。悲しみへと突き落とされる暇も無いままに。それから悲しみがこみあげてくる、なんてことも無いまま時間が過ぎていった。変わっていく周囲に、ただ戸惑うことになったのだから。
 まるで春先の日差しのように暖かった視線は、そんなものは最初から無かったかのように侮蔑の物へと変わっていったから。どうやらミズキは周囲に遊びで付き合っていただけの男、とぼくのことを言いふらしていたようだった。もちろん、ぼくと彼女のことを面白がってからかう人はいたが、ぼくとは別に付き合っている男が居という話をしてくれる人は居なかった。それはきっとぼくたちのことを応援してくれているんだ。そう考えていて、それはとんでもない見込み違いだったわけだ。
 ただぼくはそうしたミズキからも最初から愛されていなかったことになる。周囲からの変化の中で、いくつもの節があったことを思い出す。ぼくからの誘いはいつも体よく断って、彼女からの誘いが来るのだけを待ち続けていた。
 ぼくが選ばれたのは大した理由ではなかった。ミズキは常に自分が必要とされていたい、愛されていたい、尽くされたい。そうした願望を常に持っていて、それを無条件に満たしてくれるのはぼくだけだった。対価を払うことなく、ミズキにただ尽くすだけで、必要とされているという欲求を満たすためだけにぼくは存在していたのだ。
 偽りの温かさは、すぐさまぼくを刺すような目線へと変わって行った。ぼくは所詮彼女にとって都合の良い存在でしかない。いくら送られてくる言葉で取り繕われていたとしても、ずっと違和感があるのはそういうことだったんだ。ぼくは気が付かなかったことをひどく悔やんだ。まるで忠犬ハチ公のように待ちぼうけを食らっていたのも、そもそも好かれていたわけではなくて憐れまれていただけだったのだから。ミズキに同情され、周囲から蔑まれ、そして笑われ。最後はまるでどっきり番組の種明かしのように何もかもがずるずると解き明かされていく中で、気が付いてしまった。
 最初からぼくはそうやって満たされる存在で、代用品でしかなかった。それを周囲は知っていた。誰もがぼくは選ばれないという結末を知っていて、気が付くとぼくだけはミズキにまだ選ばれると思っていた。そんな力など最初からないのに。結局ぼくはただこの半年間、愚かなだけだったのだ。温かい目と誤解し、それは最初から嘲る為のまなざしでしか無かったのだから。
 とにかくミズキとの関係が終わった後、ぼくは無残に切り刻まれて終わった。別れたという事実が大した悲しみではないが、そこからぼくは酷く傷を付けられたのだ。そして、傷つけられた時ぼくは跳ね返すための術がなかった。最初から愛されていないということに気が付いてしまい、そしてただ都合良くミズキの欲求を満たす為だけの存在としてしか価値がないと気が付いた時にそうした気力も自信も。何もかもを打ち砕かれてしまった。そして、打ち砕かれたまま過ごしていた半年間の記憶はそこからすっぽりと抜け落ち、ぼくという存在はまるで透明になってしまっているのが分かった。そして、透明になればなるほど、それまで勝手知ったる仲であったはずの人たちの視線は、無関心のものへと変わって行ったのだった。
 今も白のニットと黒のショートブーツを鮮烈に覚えていて、壁は白くて空は灰色で。目に映る世界がどんな色をしているのかさえ思い出すことができない。ただ、何とか分かることは同じ世界から見ていた場所に今、白のニットはないということ。そして、玄関の先にあるのはぼくのスニーカーだけだということ。そこから辺りを見渡した。
 ぼくが脱ぎ散らかした服にコンビニ弁当と酒の空き缶。あれだけ綺麗にしていたぼくの部屋は、明らかにうらぶれようとしていた。今思うと、ぼくは間違いなく自分という存在を脱ぎ去って、ミズキに合わせたように生きていた。綺麗な部屋じゃないと嫌だと言われて、隅々まで綺麗にしたり、慣れない手料理に取り組んでみたり。今どきの話題を何とか覚えたり。そうしていれば、向こうから連絡があって、二人きりの時間を過ごすことができる。それをただ期待したままで。その期待はやがて残骸に変わって行き、そして今を存分に語っていた。
 週に一度は代えていた花瓶の水も気が付くと干上がって、花も枯れてしまっている。床にゴミが散らばり、脱ぎ捨てられた服。
 どんどんとうらぶれて行くのが分かっているのに、それでもぼくは今もまだこの部屋で呪いにかかっているかのように、釘づけにされてしまっている。生きているのか死んでいるのか。もはや生きていていいのかどうかさえ、分からなくなってしまった瞬間、ぼくは立ち上がった。
 近くにあったロンTとジーンズを身に付けて、それから財布を持ってよれたスニーカーを履いて。部屋に鍵をかけた。今日はひどく空が青いと思った。それだけが唯一の感情で、それ以外には何一つ感情も意識も何も無いまま。何かに取り憑かれたかのように、惹かれていくように。部屋を出て駅までの道、改札を通り抜けぼんやりと辿り着く駅のホームにゆらゆらと辿り着いていた。理由もなく。それにしても騒がしい。一体何が起きているのだろう。火事か何かでも起きたのだろうか。誰かが駅前で倒れたのだろうか。そういう大事が起きている気がするのに、言葉が耳に入ってこない。何も聞こえない。

 どうしてぼくはカズミと電車に乗っているのだろう。何やら悪夢でも見ていたかのように、ぼくは周りを見渡す。右隣に矢鱈と派手なショッキングピンクのウィンドブレーカーを着たカズミが「なんだよ」という顔でぼくを見て、ぼくはハッとしたように思い出した。死のうとしていたことを。
「電車が通過します」という声が聴こえる。そうか、電車が通るのか。ゆら、と立ち上がる。無意識のままに。警笛が遠くから聴こえる。一歩、二歩とゆらりと前へ近づいていく。意味も無いままに。周囲はどうやらざわざわと騒いでいたのだけれど、どうやらそれさえ聴こえなくなっていたようで。特に理由もなく、何かに引き寄せられていくかのように。強く巻き起こっている風の方向へと歩みを進めていたのだ。
 その時だった。後ろ側に引っ張られる力が働いたのは。それから思わず仰け反って、斜め上に視界が飛んで駅の屋根も視界に入った。それと同じタイミングでびゅう、と風が鳴って特急電車が走って行く。尻もちをついたぼくは、何が起きたのか分からないまま、斜め上の空を見続けた。こんなに透き通るような青い色を空はしていたんだ、と思う。視界が元に戻ると、声がした。低く、聴きなれない声で。
「ばかものお。電車を止めるな」
「え」
 言われて、我に返った。振り向くと、ぱっちりとした目を開いて派手なショッキングピンクのウインドブレーカーとスキニーパンツを穿いた女が腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「いやいやいや、そんなこと」
 必死に否定をしようとした。それと同時にぱっちりした目とその奥に開いた瞳孔が見えた。綺麗なブラウンの色をした目と、しっかりとメリハリあるまつ毛。何やら見抜かれているようにさえ感じた。
「嘘をつくな。影をどんどんと薄くしていたくせに」
 まだ女はぼくを見ていた。ぼくも同じように見ていた。だが、本当のことを言えば目を逸らしたくて仕方がなかった。弱いぼくを見られそうな気がしていた。強い人でなければ、何も魅力がないということも分かっていたから。それから軽いチョップを食らう。
「目から噓をつくんじゃない」とぼくを窘めてから。瞬間的に、白と黒のスニーカーが目に入る。あの部屋と同じ色をしたスニーカー。カズミはため息をつき、笑った。「まあいいさ。ちょっと付き合え」
 反論の時間さえ与えてもらえないまま、ぼくはただカズミを眺めることしかできない。ただ、次の電車に乗るぞーと言って大きく伸びをした。まるで今日一日ぼくと行動を共にすることが決まっていたかのように。何かを言い返す機会も無いまま、まだぼくは足と尻でホームのアスファルトを感じる。
「その前に、これを口に入れとけ」
 とビニールに入った紙片を渡された。
「なんですかこれ」
「気付け薬。上手く行けば夕方くらいにはお前も死ねるぞ」
「いやいや、だから死のうとしていないですって」
「もしそうだとしても」ぼくの言葉が止められて、カズミからの言葉が続けられた。「今死ぬ必要はないだろ」
 駅のホームの屋根から太陽が見え、逆光になった彼女の姿が瞬間的に黒くなった。声が笑っているはずなのに、彼女の中に眠っていたような底の見えないどす黒い何かが、瞬間的に背筋を凍らせた。日は照り始めているはずなのに。それから、ぼくは紙片を口に入れた。ボール紙を舐めているような気持ちになりながら、何とか立ち上がる。
 トンネルを抜けた先にあったのは、どこまでも濃い緑だった。
 それまであったはずのコンクリートの建物はすっかりと無くなり、それほど背の高くない建物とそれらが主張するかのように緑色がぼくの目に飛び込んできた。ぼくはどういうわけか特急電車が通過する瞬間立ち上がろうとしたぼくを思い出した。気が付いたら身体が動いていて、命を絶とうとしていた自分のことを。電車が到着すると同時に目を覚ましてぼくを眺めていた事にすら気が付かないまま。
「しかしまあ、空が青いねえ」
「そうですね」
 駅のホームから階段を下りつつ、ぼくはショッキングピンクの背中に言葉を返す。木で施された壁と異様なほどにマッチしていないのを感じながら。
「そんな日に電車に飛び込もうとするかね、普通」
「いやいやいや、だから違いますって」
「そうかい?」改札を通り、工事の進まないロータリーを過ぎてからぼくを見た。「あんた、そう感じていなくても死んでいたと思うよ」
「え」
「電車に引っ張られていきそうな感覚があった」
 不意に思い出す、電車へと二歩。無意識に近づいていこうとする感覚。それを思い出して、ぼくは生唾を飲み込んだ。それから、言葉を返した。
「分かるんですか?」
「まあね。私、魔女だから」
 なんだ、スピリチュアルかぶれなのかと思ったけれど、どうにもその言葉には説得力と重みを感じてぼくは何も返せない。
「でもね、次は止めない」
「どうしてですか?」
「人間だからね、死にたくなる時だってあるでしょ。そんな時にどんな言葉を使ったって、どんなに誠意を見せたって無駄だよ」
「だから止めないんですか?」
「そうだよ。ただ、電車は止めるな。私に迷惑がかかるから」
 かかか、と笑ってカズミは道をスタスタと歩いていく。途中で電車の停まっているプラットホームが見える。
「ま、それに暇そうだからさー。一緒に山でも登ろうかなって」
 笑い声を上げた時とは違った、ふざけたような声のトーンにぼくは拍子抜けをする。この人は何色も持っている、と思いながら。
「もし断ったら?」
「さっきやった気付け薬の代金を払ってもらうつもりだった。あれをね、400枚飲むと死ねるらしいよ」
 またもや笑いながら。それから続ける。
「それにね、その薬は時間が経たないと効き目が出てこないのよ」
「そうなんですか?」
「私も飲んじゃったしね」
 舌に、カラフルな紙片が乗っかっていた。笑いながら。 
「これ、なんですか」
「アシッド」
「アシッドって?」
「LSD」
「はあ!?」
 思わず口から言葉がこぼれた。もちろん、今までそうした物とは無縁ではあったのだけれど、それを不意打ちでしかも気付け薬と騙されていただなんて! それを思うと思わず声もデカくなるものだった。それでもカズミはまたケタケタと笑った。そのまま、スタスタとまだ開いてさえいないお土産屋の道を通り、気が付くとなにやら大きな建物が見えてきた。背中で会話していたぼくは彼女の前へと立ちふさがった。男だったら殴っていたかもしれないと思うほどだった。カズミはぱっちりした目をさらにぱちくりとさせて、ぼくを見た。それから、目を三日月にした。
「そう怒るなよ」
「怒るでしょそりゃ」
「ちなみにさっきやった紙を400枚同時に入れれば死ねるらしいぞ」
「え」
「それと、これから乗るリフトから飛び降りても死ねるぞ」
「何が言いたいんですか?」
 思わず両肩を掴んでしまった。訳が分からないまま、むしゃくしゃした気持ちになって。ぱっちりとした目の奥に、また綺麗な色をしたブラウンの瞳が見える。その目は一度驚いてからぼくを鋭く見た。その姿に、またぼくはぞっとする。
「誰かに操られて死ぬな。死ぬなら一人で勝手に死ね」
 一つ落とされたトーンでそう返されて、ハッとした。あの時のあの光景のままで止まっていたふりをしていたこと。そうしているうちに本当に止まってしまっていて、身動きさえ取れなくなってしまっていたこと。それは、誰かに無条件で慰めてほしかったから。気が付けばぼくは、結局一人で踊らされていただけなのだということに気が付き、また下を向きたくなる。だが、その瞬間またカズミの顔がぼくの視線を追いかけた。目と目が合う。距離が近づき、はっきりと女の姿を捉えることが出来た。
「山を登れば、死ぬ方法なんていくらだってあるさ。さ、リフトに乗るぞ」
 気が付くとぼくは、カズミの言葉に頷いていた。今思うとそれだけの引力があった。ぼくは電車へと近づこうとした瞬間のことを思い出した。それを考えた時、ぼくはまだ誰かの引力に引きずられなければ生きられないことを知ってしまったのだ。いつでも互いに調和がとれるように引っ張り合いながら、人は生きる。手を引かれた時、間違いなくぼくはカズミという人間の引力に引き寄せられていた。同じタイミングで、少しずつ緑色に変化が訪れていたのを、ぼくはまだ気が付いていなかった。
「さあ、投身自殺の時間だな」
 そう言って笑ったカズミが、あまりにも綺麗だったから。

 からからとカズミは笑う。空を眺めながら。リフトはがこんがこんと動いて、落ちてしまうんじゃないかと思うくらい大げさな音を鳴らして前へと進む。笑った時にぼくへと向く目線の角度がとても美しくて、ぼくは思わず見とれた。少し冷たい空気が入り始める季節に、まるで夏でも運んできたかのような。そんな冷たく流れる空気の壁をゆっくりと破りながら、話している話題はただひたすらに、ここから飛び降りたら死ぬことができるかどうかということだった。そうは言っても、飛び降り自殺防止用なのか網の大きなフェンスが下には囲われていて、そうしないようにぼくたちを阻んではいるのだけれど。
「ここからなら死ねるんじゃない?」
「いいや、死ねないよ。土がクッションになるじゃないか」
「分からんぞ。たまたま落ちたところが木の根だったり、大きな石が下に隠れているかもしれない。自然を侮るなよ」
「木の根っこが腐っていたり、石にひびが入っていて飛び降りても何もないかもしれないじゃないか」
「お前、あれこれと口だけ出して行動しないタイプだろ」
「そうかな」
「そういうやつは死ぬこともできないが、その代わり何もできない」
 その言葉を聴いて、横に座るカズミを見た。言い当てられたという気持ちとそれに反発するような気持ちが入り混じって。驚いたように見開いた目には、カズミによって動かされた感情が入り混じっていた。不意に、目が合う。ぱっちりとした目でカズミはぼくを見ながら笑った。
「ま、君だけに限ったことじゃないさ。それに君、さっき電車へと飛び込もうとしていたじゃないか」
「だからあれは」
 言葉を続けようとして、止めた。あの時ぼくは、見えない何かへと引きずられようとしていて、それに引き寄せられるまま飛び込もうとしていた。恐らく、そのまま歩いていればぼくはそのまま吹き飛ばされていただろう。ただ、気がつくとそれ以上に強い力でぼくは引き倒されていた。その女の引力はそれよりも強く、そして今ぼくはこの瞬間も引き寄せられ続けている。
 どうしてだろう。見ず知らずの女に、ここまで言われて腹が立っている。きっと突き落としてしまえばぼくは一躍犯罪者の仲間入りだろう。なのに、それ以上にカズミがピカピカと輝いて見える。ショッキングピンクのウィンドブレーカーから見えた鎖骨、肩、そして顔。そのブラウンの瞳。彼女は今、ぼくをしっかりと見ている。ぼくもまた、同じように見ていた。後ろ側には深緑色の世界が連続していて、その合間に空色が交じる。その中でカズミの輪郭は先程よりも際立ってみることができていた。話題を忘れて見つめ合い、それからカズミが口を開く。驚いたように。
「おお、さっきよりも影がくっきりしてきたじゃないか」
「分かるんですか?」
「何度も言わせるな。私は魔女だ」
「魔法をかけているところ、見たことないですよ」
「魔法の薬を飲んだじゃないか」
「あれは麻薬でしょ」
「魔女の薬を略したのさ」
「今適当につけただろ」
 結局リフトから飛び降りる事が無いまま、二人でリフトの終着地点までたどり着いていた。あの時のように、見えない何かに引きずられるような物よりもずっと、カズミの引力の強さが勝っていたのではないか。そんなことを今となっては思う。そんな話をリフトを降りてすぐのところにあったベンチに座りながら話していると、ほら見てみと言われてベンチから見える木々を指さされた。木は動いていてぼくの世界は先ほどよりも大きくぶれている。
「動いているの分かる?」
「わかるよ」
「いいねー。魔法の薬が効いてきてるよ。次第に、色彩ももっと豊かに感じられるようになる。今日、君は色とりどりの世界へと行けるよ」
「色とりどり?」
「時間が経てば感じるようになるさ。それと」言われて、黄金色に光るオイルが入ったベープを渡された。「まだまだ深いところまで行けるさ。これでね」
「なんですか、これ」
「不思議な薬パート2だ」
「麻薬でしょ」
「魔女が持つ薬だからな。魔薬だ」
「確かに」
 そのベープを一吸いすると、口の中に緑が爆ぜた。のどに当たって咳き込みたくなる。それを見て、カズミは笑った。
「バカだね。そんないっぺんに吸うなよ。これ高いんだよ?」
「こんなもの吸ったこと無いよ」
「良いかい、良く見ておくんだ」
 一吸いし、それからウィンドブレーカーの中で大きく咳ごみながら咳き込んだ煙を吸い込み、大きく深呼吸をするように煙を味わう。一通り吸い込むとぼくを見て、またベープを差し出した。
「やってみ」
「また?」
 頷かれ、ぼくはまた吸い込み、カズミがやったように咳き込みながらも服の中で煙を吸い込む。緑を口の中で何度も反芻するように、吐き出しては吸い込んだ。次第に落ち着いてくると、何やら喘息にでもかかったかのように気管支が緑の煙で覆われているような気持ちになる。
「どうだい?」
「緑が口の中でむせそう」
「それが分かれば、しっかり吸えた証拠さ」
 さ、行くよ。言われてまた、頂上へと向けて歩き始める。そのショッキングピンクの背中は、またぼくを強く引き寄せていく。自らの意思でなく、さながら牽引されているかのように。
 不思議と身体は疲れていない。多少、息は切れているけれど軽々と登ることが出来そうなほどだ。それは山を登るという高揚感なのか、あの緑色の匂いのせいか、ただカズミにまだまだ引きずられているからだけなのか。それとも、色とりどりの景色が目に映っているからなのか。
 時間が止まったように山はその瞬間を留めていて、切り開かれている登山道はひたすら僕らを上へと誘う。止まってしまうことだってできるはずなのにそれさえせずに上へと進もうとしている。木々に目を追いかける時間が増えていた。どこからともなく聴こえる鳥のさえずり、ピンとした空気とその匂い。緑色に覆われたような天井と電信柱のようにそびえたつ茶色の木々。生きている土の色。登って行くにつれて、鮮やかな色彩がぼくを通過していくのが分かる。空を見た。陽が高い。
 世界がこれほどまでに美しいのかと、ぼくは思い知ってしまったのだ。
「どうだ、すごいだろ?」
「え」
 声をかけられて、ショッキングピンクの背中がこちら側に振り向いていることに気が付いた。足を止めてしまっていたのだ。確かに、少しばかり距離が出来ていた気がしたのだけれど、カズミよりも遥かに鮮やかなほどの色彩が目に飛び込んで居ることに感動をしてしまっていたようだった。思わず自然の中に自分を投げ出してしまいそうになるほど。笑いながら、カズミはぼくに声をかけた。
「立ち尽くしちゃって。感傷に浸ったつもりかい?」
「そんなつもりじゃ」
「それで良いよ。もっと君は浸った方が良い。影がもっともっと、くっきりしてくる」
 人差し指をぼくに差し、それからぼくは呆然としてしまう。ぼくはこれほどまでに浸るという事を避け、そしてそれらを背けていくことで日常を過ごしていた。ただ、ぼくはいつからかそうして自らの表面を満たすことだけを考えていて、内面まで浸るほどに満たすことさえ考えないまま、ただ生きていた。そしてそれが、半年前の自分自身だったことにも気が付く。
 ミズキに選ばれるために、いつも全てのことを優先し、そして彼女のために尽くしていたつもりだった。決して広くないアパートの中で、二人きりの時間を作り出すために、彼女にふさわしい人間となるために。ぼくはあの時、何もかもミズキに優先させていた。ただ、ミズキはぼくと向き合わなかった。言葉ではいくらでも伝えてくれていた「大切だよ」という物も、結局それは口だけだった。
 ただ、その見切りをぼくは一つとして上手くできなかった。初めてここまで狂ったから。ようやく、誰かを愛せそうだと思えたから。だけれど、所詮は彼女が選んだ花束の中にある小さな一つの花でしかなく、やがて枯れればあっさりと捨てられる。
 それは生きながら死んでいたというのと、同じ意味なのかもしれない。
「さっきよりも全然いい顔だ。それに、アシッドはこっからどんどんと効いてくる」
「どんな風に?」
「全部がハッピーになる」
「なんだそれ」
「そのうちわかるさ。さ、そろそろ頂上が見えてくるぞ」
 そうして辿り着いた頂上は思っている以上に平凡なはずなのに、どうしてだろう。とてつもない達成感を強く覚えていた。思わず着いたーと叫んだとき、カズミはにやにやと笑っていた。
「なんだよ」
「良いねー、効いてきているねえ」
「どういうことよ?」
「ここから全部が楽しくなってさ、ハッピーになって行くよ」
「例えば?」
「それを体感するために、今から下山するぞ」
 頂上に辿り着くや否や、カズミはぼくにそう言った。あれほど浸るだけ浸らせたにも関わらず。
「え、もう?」
「わざわざのんびりする必要もないだろ? さっさと降りる!」
「もうちょっと浸りたかったのに」
「あれだけさっき浸っていただろうに」
「それは言えてる」
 カズミの言葉に、ぼくは思わず笑ってしまう。確かに、なんてことの無い会話だ。どうしてか面白くて笑ってしまう。何やらすっかりと彼女のペースに巻き込まれているような気がした。けれど、それでもいいやと思えたのは、魔法の薬のせいだろうか。それだけではないと思った。
 一瞬にしてカズミという人間の引力に深く惹かれていたから。それは惚れたとも好きとも違う感情。本当にこの女は魔女なのかもしれない、とさえ思うほど強くぼくを引き込んで行く。カズミは自分が誰かに選ばれることを知っている。そして、選ばれなかったとしても決して慌てふためかない。
 だけれど女は選ばれなくても、自ずと誰かに選んでもらえるかもしれない。男であるぼくはいつも選んではもらえない。選ばれに行かなければならない。
 女は選ばれなかった時、悲嘆に暮れることを許される。だが、男であるぼくはいつも我慢を強いられる。泣いて弱音を吐けば、次第に突き放されていく。だから男は泣くことも嘆くことも許されない。選ばれないということをただぐっとこらえて、唇を噛むことしか出来ないのだ。
 だけれど、この悲しみを知ってもらいたい時、ぼくは誰に伝えれば良いのだろう。そんなことを思いながら、ぼくは暗いモスグリーン色の世界が広がる階段を先に降りるカズミの声を聴く。
「おい、この階段は急だ」カズミが何やら真剣に語っていた。さながらインディー・ジョーンズにでもなったかのように。「慎重に、真剣に降りないと私たちの命は無いと思え」
「そんなに?」
 眺めれば、大したことのない階段であるはずなのに。
「山をなめるな。そして、今の私たちの身体をなめるな」
「なんでよ」
「魔女の薬はそれだけ強いのだ。ハッピーになった分だけ身体がバカになる」
「麻薬ね」
「やかましい」
「はいはい」
 とにかくぼくとカズミは二人で急な階段を下るという、宝探しをしないインディー・ジョーンズごっこをやる羽目となった。確かに階段は急だったが、普段通り歩いていればなんてことの無い階段で、である。
 それなのに、ぼくは自分自身を見くびっていたことを一歩踏み出した瞬間に実感することとなった。下るたびに膝が折れて沈みそうになる。そのあとから、体中から震えが走り始める。全く力が入らないようにさえ感じる。しっかりと自分で着地したという事を気にかけないと転んでしまうかもしれない。しかもだ。急な斜面に足を取られてしまえばケガだってしてしまうかもしれない。なめてかかっては大変なことになる。なるほどインディー・ジョーンズだ。改めてそう思い、おかしくなって笑ってしまった。
「なんだこれ」
「どうした?」
「足の力が抜けていくみたいだ」
「効いてるじゃん。魔女の薬」
「まだ言うのかよ」
 その言葉がきっかけで、おかしくてぼくは笑ってしまう。
「いいねその顔。思ったより良い男じゃないか」
「イケメン?」
「お前以上のイケメンは一杯いる」
「悲しいなあ」
「そんなもんだ」
 また、笑いが止まらなくなる。これが魔女の薬の効果なのか。その代償としてこんなに便利なぼくの身体をつかさどっていた、バランスを保つ機能が麻痺しようとしている。どうして今まで、上手く使いこなすことが出来なかったんだろうと少しながら嘆いていた。いや、こうした経験が無ければ気が付くことが出来なかったか。そんなことを思いながら、とにかく山を下ることに集中し続けることにした。
 何やらうめくような声が前からしている気がするのだが、それらを気にしている暇も無いままに。とにかく一歩一歩をしっかり踏みしめなければ、大変なことになる。その意識だけを心の中に置く。
 何を血迷ったのか下りの道はあまり整備されていない道だった。階段を降りて、更に下って行く山道は人がすれ違うのもやっとという程細い道だった。もちろん一応登山客用の道だから、きちんと整備はされている。だけれど、幅が狭く下り坂は急で、足を踏み外せば谷へと真っ逆さまに落ちて行ってしまうような場所。さっきと同じように綺麗な緑と木の色と岩肌と土の色を感じているはずなのに、すぐそこにある命の危機。不意に思い出す。彼女はぼくに死を選ばせてくれようとしているのではないか、と。
「どうよ」
「なにが?」
「すぐそこ、落ちれば死だ」
「打ち所が悪ければね」
「だが、おっかなびっくりでは死ねない」
「どうして?」
「こういうのは不意打ちでないと意味がない」
「突き飛ばしてくれる?」
「死ぬなら一人でやれ」
 なんだよー、と笑うとカズミは手をひらひらさせて、それからまたベープで煙を吸い込んだ。ぼくももらって良いか訊ね、差し出されたそれを深く吸い込んだ。緑色がまた、胸の中で爆ぜた。小鳥のさえずりや、のんびりと山を上り下りしている人たちとは遥かに異質なぼくたちという存在。ぼくは今、確実に色彩の世界の中に入っている。そうして引き寄せられたぼくは、今もまだ誰かの引力に引きずられて生きている。そうして生きていることを自ら望んでいるかのようにして。

 それからしばらく歩いた。辛うじてすれ違うことができる山道を、途中何人かとすれ違いながら。それからさらに下っていると、突然カズミは立ち止まって手を膝につけた。小さな川が流れている斜面でのことだ。
「おい」
「なんだよ」
「休みたい」
「ここら辺ベンチ無いぞ?」
「そうじゃない。吸えんだろうが」
「ああ、そういえばノー・スモーキングって書いてあったもんね」
「全く、山をなんだと思っているんだ」
「お前だよ」
 そう言い合いながらこれで何度目かと忘れてしまいながらも笑い合う。そうしていると、黄色と黒のロープで張られている場所を見つける。明らかに立ち入り禁止になっているその場所からはちょろちょろと水が流れているが、歩けない場所ではない。ぼくとカズミは目配せをして人がはけたタイミングで登り始めた。ここからはいよいよ足に力も入っていないから、全身をくまなく使って登って行かなければいけない。一歩間違えれば転んで、そのまま転がり落ちて死ぬこともできる状況で、それでもそれが楽しくて笑った。
 カズミは小さな川岸に倒れ込む。人がさっぱりいない場所。大きな岩陰に隠れて誰からも怒られない場所だった。倒れ込んだのはすぐのことだ。
「あー、だいぶ効いてきた」
 ウィンドブレーカーに黒く湿った土が付き、黒のスキニーパンツにも同じように土が付く。ぼんやりとそう言いながらカズミは空を眺めていた。まだ、空は高い位置にあった。
 普段だったら、あとどれくらいだとかいう思考まで働いていくはずなのに、次第に思考が纏まらなくなっていく。そして、それはカズミも同じようだった。立ち入り禁止のはずなのにアームウォーマーとかゴミとかが多く散らばっていた。どうやらあのロープを越えて入ってくる人は多く居るらしい。ぼくもぼんやりと上を眺めた。そういえばさっき、スポーツ用のタイツを履いたお兄ちゃんがそのまま上へと登って行ったな、なんてことを思いながら。まだ空は高く、濃い緑と太陽に照らされた黄緑は空色と同化していた。遠くで鳥が鳴いている。座り込んだぼくも思わずダメだ、と言いたくなりそうになっていた。
「どうよ?」
 言われて振り向き、ぼくはうわっと声を上げて、それから気のせいかと大笑いした。
「びっくりするねえ。どうしたのよ?」
「一瞬あれが鳩の死体に見えた」
 そこにあったのはただの石と枯葉なのに。ただの幻覚であるはずなのに、それがおかしくて笑ってしまう。
「あー、だいぶ効いてきているわね」
「確かに。感情全てが吹き飛ばされそうな感じがすごくするんだ」
「どうでもいいやー、的な感じだね」
「それに近いかもね」
「人間の悩みなんてそんなもんだよ」
「分かっていたんだけれどなあ」
「でも、出来なかった」
「そうだね」
「それはきっと、それだけ思い入れがあったからなんだよね。その女に」
「うん、めちゃくちゃあった。選ばれないことがこんなに辛いのか、って」
「相手にも選ぶ権利はあるんだけどね」
「確かにね」
「それを認めるのが怖かったんだろうね」
 それから静かに沈黙が流れた。空はまだ青く、小さな水がちょろちょろと斜面を下って行く。ぼくとカズミはずっとそこにいる。また、ベープが差し出された。
「魔女の薬?」
「ま、もう一回吸っとこうよ」
「それもいいね」
 差し出されたそれを静かに、そして緑色を感じながら吸い込んだ。体中に緑を感じる。続けて、カズミが吸い込んだ。しんとした中で、カズミのぱっちりとした目の奥がさらに大きく開かれているのが分かった。きっとぼくも同じように見開かれている。手がフルフルと震え、カズミは言葉に何かをしようとしていたのだけれど、纏まらない。ぼくもまた、言葉が溢れて何もかもが纏まらない。
 ただ、圧倒的なまでに緑の色合いがとてつもなく多く感じて、自分が溶けて消えて行くようになる。目の前に見えている小さな花の鮮烈なまでの赤い花芯と太陽に照らされてまるで透けているようにさえ感じられるほど薄い緑。それを次第にぼんやりと眺めていると、目の前からぼくが崩れ落ちてまた作り上げられて、また崩れ落ちてまた作り上げられた。次第に何やら高速道路を走っているかのように世界を疾走し、その中でぼくが風に散り、溶けて無くなりそしてまたその塵がぼくという存在を作り出していく。言葉が巡り、思考が巡り、世界が巡り、自我が巡り、やがて人が巡って行った。ただ、唯一塊のように残っていた、ミズキの存在だけがぼくから消えようとしない。背中が丸まり、俯いたかのように花を眺めながら、ぼくは一人ぼんやりとその存在が溶けないことに心が動いていた。溶けては何度もぼくという存在が作り直されていくような過程を味わっていたからだ。その中で世界中に色が駆け巡っていくのがわかる。
 それから空を眺めた。白みがかった水色に緑が溢れていた。川の水の流れと、風で緑がそよぐ音。それから正面を見た。圧倒的なまでに緑で溢れていた。緑が溢れていた。緑が。そう、みどりが。鮮烈なまでの木々の音が過ぎ去って行く。それから、カズミを見た。カズミもまた、震えていた。ぼくと同じように。そして、またぼくはみどりを強く感じながらまた崩れ落ちて戻ってきた。身体中に緑色の何かが満たされていき、それから緑色の何かがまたぼくを崩壊させていく。まるで輪廻転生を何度もしているような感覚に陥らせていったのだ。それでも、消えない想いだけが胸にあった。
 ミズキに選ばれたかった。ミズキの大切な人となりたかった。ミズキの秘密になりたかった。もちろん、選ぶ権利が向こうにあるにしても、それを今叫んだとしても嘆いたとしても。何一つそれらは届かないし誰にも伝わらない。それでもぼくはこの苦しみや悲しみを溶かす方法を知っていた。だが、それはやっぱりぼくが男だから、結局一人でそうするしか無いのだと悟る。吐き出したくて、ぶつけたい想いはやがて自らへの嘆きと代わり、そして口からこぼれ落ちる。
「泣けないんだよ」
「誰が」
「ぼくが」
「どうして」
「本気で悲しんでいても、誰も真剣に受け取ってくれないから」
「日ごろの行いの悪さだな」
「でも、そんな奴でも悲しむ権利はあるんじゃない?」
「確かにね」
「泣けばバカにされて、慰められるどころか叱られて。ぼくは、どこでなら悲しんで良いのかな。どこでなら、このやるせないものをぶつければいいのかな」
「知らん。私はお悩み相談センターじゃない」
 ぶっきらぼうに言われて、ぼくはつい語気が強くなってしまう。
「そうだけどさー」
「それにさ、あんた泣いてるよ」
 だが、その怒りはカズミに差された指から覚めて行く。目の端から流れていた物から。そして、顔が近づく。両耳の少し上を優しくカズミの両手が包み込んだ。額と額が触れそうになる。
「それだけ好きだったんだろ?」
「好きだった」
 それから、こつんと触れた。
「我慢しなくていい。よく頑張った」
 こらえる涙を抑えきれずに、地面にこぼれた後にその線をなぞるように、カズミは指でぼくの頬を拭う。それから、唇にキスされた。ミズキのそれとは違う、スタンプされるようなキス。
「お姉さんからのご褒美だ」
「え、カズミっていくつよ」
「女に年齢を訊くな。殺すぞ」
「それはいい。死ぬには良い日だよ」
「言うねえ。で、どうするよ? 死に方」
「絞殺」
「私の負担がでかいから却下」
「刺殺」
「ナイフ持ってない」
「転落死」
「自分で勝手に転がってくれ」
「痛いのやだ」
「じゃあ却下」
「毒殺」
「毒はない。探せ」
「400枚飲めば死ぬんじゃないの?」
「いつも持っているわけないだろバカタレ」
「不便だなー。殺すって言ってんのに」
「私は面倒なことが嫌いだ」
「じゃあ、餓死」
「あー、それ私もするかもなあ」
「そうだね、このままずっといると死ぬね」
「選ばれないままね」
「そうやって腐っていくのかな」
「そう考えると、死ぬのも癪だ」
「そうだね……。やっぱり良いや」
 ふふん、とミズキは笑った。
「これが魔法の薬の効果だ」
「なるほどね」
 そして、笑いあった。その笑いあっていた時間さえ、さながら永遠のように感じられて。それからぼくは気になることがあったので、カズミに訊ねる。
「ねえ、カズミは選ばれずに死にたくなったこと、あるの?」
「愚問だな。何度も経験したよ」
 即座に答えが返ってきたので、言葉さえ返すことが出来なかった。さ、下らん話はもう終わりだ。そろそろ天ぷらでも食べに行こう。日が暮れちまう。そう言ってカズミは立ち上がり、ぼくはそれほど時間が経っていないことを知った。まだ脚に力が入らない。魔法の薬が切れるのを恐れながらぼくたちは山を下る。自分たちが特別で選ばれていない存在だとお互いに分かり合いながら。

 結局カズミとはそれっきりになった。ぼくは相変わらず選ばれない日々を過ごしている。彼女が今どこで何をしているのかわからない。連絡先さえ交換しないまま、その一日は終わってしまったのだから。それで良いと思った。まるでビジネスマンがやるような握手をしてから別れたのだけれど、あの握手を思い出すたびに最後お互いの頑張りを誓い合ったような、そんな気持ちになるのだから。
 とはいっても、あの日から世界が変わったかと言われるとそんなことも無くて、まあそういうものだよなと思う。ぼくはあの家から引っ越したし、それから引きずることは無くなったけれど。その間にミズキはどうやら子供が出来て、大層幸せそうな顔をして暮らしている。あれから一通、連絡があったので知ったことでもあった。
「これからも大切な人だから、一緒に頑張ろうねっ!」
 メッセージにはそう書いてあった。どうして、こんな嘘を軽々と並べることができるのだろうと、ぼくは思う。上っ面だけを取り繕った言葉は、吐き気だけ催した。
「嘘、つかない方がいいよ」
 それだけを送ると、数秒して「どういうこと!?」と連絡が届いた。それを目にしてから、スマートフォンの画面を黒くした。夜空を眺め、ため息をつく。誰もいないターミナル駅の広場で、汚い月を眺めながら。
 あれからしばらくは、ショッキングピンクの服を着た女を探すようになっていた。そうすればまた、ぼくを緑あふれる世界へと連れて行ってくれるような気がしたから。それとも、本当に魔女だったのだろうか。そんなことを想像しながら、酒の入った缶を空にした。
 すっかりと冷えた夜風が吹いた先を眺める。さっきまで忙しなく走っていた電車が姿を消していて、しんとしている。そんな時、今でもカラカラと笑うカズミを思い出す。あの時聞いたあの言葉は、遥かに重たいまま今も残る。だからこそ、次は笑って会えればいい。そんなことを思った。
 誰もいない広場で物思いにふけるのも大概にして、そろそろ帰ろう。立ち上がって大通りに出た時だった。どこか影の無い顔で横断歩道に立っている女が居た。どうしてだろう。ぼくは気が付くと、その人の前へと歩みを進めていた。遠くから大きなトレーラーが走ってきていた。ゆらり。彼女の右足が動いた気がした。
「ねえ」
 大きな声を出してぼくは、襟元を掴んだ。振り向いた彼女は驚いた顔でぼくを見た。それから、ぼくは右手を差し出した。影の無い顔をしたその子は、ぼくを見て呆気にとられながら右手を差し出してくれた。右手と右手が重なる。ショッキングピンクとは遥かに違うパステルカラーの服装の女の子。だけれど、重ねた手はカズミがぼくに差し出してくれた手と似ている。そんなことを思った。

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