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ジャグア・キャンバス

久々に書いたやよ。

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 ぼくがアヤカに好意を持った時にはもう、ぼくは左腕にジャグアタトゥーを入れていた。二週間もすれば、幻のように消えてしまうタトゥー。
 そして、アヤカがぼくと好意を持った時にはもう、アヤカには愛し合う男が別にいることもぼくは分かっていた。何よりも質が悪いことに、ぼくはその愛し合っている男をまた別に知ってしまっていた。名前をユウキという。彼はとても優しく、真面目で、心配りができる。少なくてもはっきり言えるのは人間として、ぼくよりもはるかに稼ぎがあって、人望もあって、努力家で。
 もし、この世の中に人間のグレードを決めるようなシステムがあるとするならば、ぼくのはるか上を行っている素晴らしい男だということだ。髪の毛をピーチウーロンのような色に染めて、左腕だけにタトゥーもどきを入れている、ぼくのような人間よりもはるかに釣り合っていて、魅力的ではある。
 誰もが言うのだ。「あなたにはあなたにふさわしい人がいる」と。だったら連れてきてほしいのだ。だってそうしてふさわしい人を待ち続けてみたはいいのだけれど、未だにそんな人に出会ったこともなければ、はたまたであったとしても誰かとアフェアを持っていることがどういうわけか多い。
 また別の人が言うのだ。「タイミングが悪かった」と。そのタイミングが毎回毎回悪すぎるのは一体なぜなのかと。いちいちタイミングやら運やらで片付けられて、結局まるで通過列車のようにいつまでも通り過ぎていく。結局ぼくだけ遠くへと追いやられていて、ぼくが一人で空白を抱え続けることがより良くて。埋め合わせるように何かの入れ物となって何かに化けようとするのだけれど、結局すぐに化けの皮が剥がれて誰も寄り付かなくなる。
 逆に「奪っちゃえよ」という人なんて最悪だ。そうすることができるならば最初から苦労していない。奪い方も教えてくれないくせに、自分に責任がないからって適当なことを言いすぎだとぼくは思う。こちらは失敗したくないし、どんなことでも傷つくことなど最初からお断りだ。
 終いには「それでは何もないじゃないか」と言ってくるが、まさしくそれこそ熟練している者の言い訳であって失敗をして成長するなんていう屁理屈など、ぼくは最初から共感しない。だから、ぼくの問いに対して誰も答えを持ってきてはくれない。強いてあげるなら、マウントを取ってこようとする人だけだ。
 それでも、他人の物に興味があるせいか、友人からバトル鉛筆をせしめたり、妹からぬいぐるみを取ったり。そういうことをしていたのは、多分自分の中には何もないという空白ばかりを感じていたからか。だから、誰かの色に染まっているようなそんな人間ばかりに本能的に惹かれてしまっていく。誰かに属しているのが分かってしまうと飽きてしまう。コンプレックスを感じているからでもないし、別に勝てないと感じているからでもない。ただ、飽きてしまう癖ばかりが身についてしまっていた。まあ、世間とのヒエラルキーを感じてしまえば、勝てないと判断しているのと同じなのかもしれないけれど。
 そうしたことを繰り返しているうちに、ぼくは誰かと好意を持つということに対して心から飽きてしまっていた。左手にジャグアタトゥーを入れ始めたのは、その頃からだ。ぼくの心に生まれていた空白を少しでも埋めてくれるようにと願いながら、小さな歯車から入れていた。だけれど、その歯車は結局誰ともかみ合うことなく、あっという間に二週間で消えてしまっていった。
 ユウキと知り合ったのも、ちょうどその頃だった。出会った時から、二人が付き合っているということをぼくは知っていた。ユウキと会話をしたとき、しきりに話題にしていた女がアヤカだったからだ。それからアヤカと出会うまで、それほどの時間はかからなかった。
 アヤカはぼくの心の空白をすんなり埋めてくれる人間ではある。一方で、心の空白が大きくある人間であった。寂しがりで、甘えん坊で、他人と違う世界観を持っていて、自由にふるまっていて、そしてユウキと出会う前から、多くの人との経験を持っていて。だから、ぼくの左手に触れたときに、彼女はこう言った。
「寂しい腕ね。何もない」と。
 その一言でぼくは彼女と好意を持つことだけを心に決めた。だから今。初めて、ぼくは、誰かに属そうとしている人を奪い取ってしまうかもしれない。そう感じていた。

 だけれど、鋭いユウキの事だ。もう、とっくの昔にぼくのアヤカへの好意について見破っていることだろう。ユウキは誰よりも人を愛しているからこそ、アヤカの些細なところにも気が付いているはずだ。
 それでも、ユウキは取り合わないだろう。ユウキは誰もが認めるような人気者で、放っておけば別の女を作ることなど容易だからだ。そういう点で、ぼくはユウキに様々な意味で見下されている。そうした黒い何かを覚えていることも、まぎれもない事実だった。ぼくには恋人がいなくて、ユウキにはアヤカがいる。仮に失っても、ユウキにはきっとまるでスペアのタイヤのように代わりの女が出てくるのだろう。
 いや、もっと冷酷なのだろう。次の人を見つければ良いと思っている節があるのかもしれない。そして、それは最も合理的で正しい判断だ。だけれど、とても冷たくて機械的で。あまりにも物語がない。
 ぼくは時々、アヤカとユウキがいる家に行く。既に二人は一緒に住んでいて、お互いがお互いの生活をしながらもつつましやかに、そして着実に愛を育んでいる様を何度も見てきた。ぼくから連絡をするか、ユウキから連絡が来るかなのだけれど、何かをするわけでもなくただ静かにぼくは置物のようにいては、アヤカの料理を食べてユウキと語らってから、ぼくが適当な場所で買ってきたお土産の甘いものを食べて帰る。
「なあ、アヤカが来週の日曜日に旅行に行くって知っているか?」
 ちょうどそれを聞いたのは、10回目に遊びに行った時だったか。いよいよ春が近づいてきていた陽気に胸を高ぶらせながら、ぼくとユウキがタバコの煙を燻らせていた時のこと。驚くまでもなく、アヤカを見る。それからやや目を伏せる。
「別に。研修でどうしてもそっちに行くってだけよ。久々に一人だけどね」
「場所は?」
「千葉の南房総」
「いっつも旅行へ行くとき、写真乗っけているもんな、良く二人っきりで」
「大体旅行に行くときはついていったものな。研修だし、若い男にとられるんじゃね?」
「まさか」
 ユウキが余裕を見せつけるように一本、タバコを吸い込んだ。その余裕は、まるで「俺からは離れられないんだ」というのをぼくに見せつけているように荒々しく、傍からすればぼくへの威圧にも感じられた。彼の両手に何かを彩る絵柄は無い。それでも十分に、彼女を満たすことができるという誇示でもある。だからぼくは、何も言わずに一瞬だけユウキを憎んだ。そして、言葉を選ぶようにこう伝えた。
「本当に仲が良いよな」タバコの煙を遠くへと眺めながら、それからうつむいてぼくは続ける。「きっと、ぼくには知らない秘密を二人で持っていて、それをずっと二人だけの宝物としていくんだろうな。そしてそれは時間を重ねれば重ねるほど、どんどん増えていく」
 まあ、ぼくには関係のないことか。誰に言うわけでもなく、空に向かってぼくがつぶやく。ユウキの目は笑わないまま、それでも声のトーンだけ優しい印象を残しこう伝える。
「ジュン、お前こそ早く誰かと付き合いなよ。絶対今ならできるって」
「そうだな」
「居ないの? 好きな子」
「いるよ」
「どんな子?」
「彼氏がいる子」
「奪っちゃえよ」
「奪い方を知らない。教えてくれる?」
「馬鹿言えよ」
「心開いてくれる人が居ないんだよ。居たとしても、大体は誰かと付き合っている。しかもお互いを愛し合っている人ばかりさ」
「そこがチャンスじゃないか」
「そうは思えないんだよ」
「なんで」
「見えない壁ばかり感じて、嫌になる」
「そうやって諦めるからだろ」
「それが諦めるってことなの?」ぼくは首を左右に二回振る。「ぼくにはわからないや」
「相変わらず偏屈なやつだなー」
 ぼくのつまらない理屈に付き合ってくれるユウキは本当に良いやつなんだろうと思う。少なくともぼくよりも男としての度量が広くて、優しくドンと構えている。その姿は自信に満ちていて、ルックスうんぬんよりも男のぼくでも安心感を覚えるような。そんな気持ちになる。寂しがりのアヤカと釣り合うのも、どことなく分かる。だから、ユウキの好きな人はいるのかという質問にぼくはとてつもなく好感を覚える。そして、そのたびに人としての度量を思い知り、つくづく嫌になる。ここで苦し紛れに、アヤカと答えたとしても。ユウキならば笑って許してくれるのかもしれない。だけれど、そんなジョークのような回答をしてまでアヤカを奪いたいとは思わない。大体が、そんなの格好悪いからだ。
 アヤカがカチャカチャとコーヒーを入れる音が響く。コーヒーが入ったな、戻ろうか。ぼくを促すユウキはとても心に余裕があって、逆にそれが恨めしい。俯きながらコーヒーを入れる姿は、どこか寂しそうで、埋まらない空白を埋め続けようとしていて。もし、ユウキが居なければアヤカに抱きついていたかもしれない。そう思うと、ぼくはやっぱりさっきまで居たベランダのガラスからこうしてただ眺めるように二人を見続けるしかないのだろう。
 きっと諦めているように見えるのも、勝てないと下を向いているように感じるのも。ぼくは何かを手にするということに対しての自信が一つもなくて、それが分かってしまうからなのだろう。左手を見る。人差し指にジャグアインクで描かれたピースマークが一つとして平和を示さない。中指に描かれた錨は安定を示さない。ぼくは分かっている。
 だから、その夜にぼくは左手の人差し指の横腹に「W.W.J.D?」とジャグアをまた入れた。
「What Would Jesus Do?」クリスチャンでも何でもないけれど、インクが乾くのを待ちながらぼくはぼくに「どうする?」と問いかけていた。

 だからなのだろう。彼女が泊っているホテルのロビーにぼくが現れた時、アヤカは決して驚かなかった。むしろ、ぼくが現れることを待っていたかのように。
「よくここが分かったわね」
「インスタのストーリー。安易に乗っけるもんじゃないよ」
「まるでストーカーね」
「だから誰にも言わずに、ここへ来た」
 遠くには晴れ晴れとした海が広がっている。
「ねえ、急がなきゃいけないの。次の研修があるから」
「分かってる」
「どいて」
「大丈夫。邪魔はしない」
「何が大丈夫なの? こういうことをされると困るんだけれど」
「困らせに来たからね」
 信じられないと言った顔で、アヤカはぼくを見つめる。
「帰れるの?」
「明日まで宿を取ってある。ここから先にある、海が見えて飯のうまい民宿だよ」
「で?」
「その民宿の海岸で待ってる」
「来ないかもしれないのに」
「きっと来るさ。そんな気がする」
 ぼくの頬を強く張る音が聴こえた。周囲の人たちがざわつく。正しい。もしこんな気持ち悪い男が居て、こうして邪魔をしているならば、こうされたとしても仕方がない。ぼくでもそうするだろう。だけれど、ぼくは笑ってホテルを後にする。何やらハワイ帰りの髪型をした女性と、フグみたいに膨れた顔をした女に睨まれた気がしたけれど、まあそんなことは良いだろう。ゆっくりと歩いていきながら、真っ赤に染まる夕空を眺めていた。遠くから何か叫ぶような声が聴こえていた。これが研修なのかと、ぼくは思わず笑って歩いた。
 その夜は、やたらと豪勢に作られた夕食に舌鼓を打つ。特にお造りが本当に旨いと思う。そんなことを思いながら、夜の海をぼんやりと眺める。ただしんとしていて、月さえも見えない。
「お夕食はいかがでしたか?」とふすまを開けておかみさんが声をかけてくださる。
「おいしいですよ」
「それはよござんした」
 おかみさんのお辞儀と併せて、ぼくも頭を下げる。
「おひとりで?」
 ぼくの左手を見ながら訊かれた。
「ええ、まあ」ぼくは左手で頬をかく。それから続ける。「人さらいかな」
「ご冗談を」
「冗談ですよ」
 おかみさんが笑い、ぼくも笑う。素敵な夕食だと思う。どうしても埋められない心の隙間に勝手に絶望しながら、それでもその空白を楽しむようにぼくは夕食を楽しむ。ぼくの頬を張った時の、アヤカの顔を思い出す。確かに怒ってはいたのだけれど、それ以上に困惑した表情。男はどうして、気になる女にいじわるをしたくなるのだろう。どうやらまだまだ考察が終わりそうにないと思いながら、ぼくは食事を楽しんだ。
 その夜、ぼくはコンビニで買ったビールを飲みながら、人差し指のピースマークを上からインクでなぞる。左手というキャンバスに、小さな意味を持たせるように塗りつぶしていく。ぼくの左手は、ユウキのように何かを守ることができないかもしれないが、それ以上にとてつもなくおしゃべりなのだ。

 その次の日に早くもチェックアウトすると、ぼくはただ何もない海をぼんやりと見ながらアヤカが来るのを待っていた。ただ酒を買い込んでは何もするわけでもなく、ぼんやりと海岸でアヤカが来るのを待っているだけのぼくに、アヤカが果たして来てくれるだろうか。そんなこともぼんやりと思いながら、タバコを吸ってアヤカを待つ。
 もし、これでアヤカが来なかったとしたら。もし、ユウキがきてぼくを殴りに来たとしたら。まあ、どっちもあるかもしれないと思い、ぼくは結局海岸から動いてしまう。どうせ行くなら、アヤカのいるところに行けばいいと。結局焦れてしまったぼくは、昼過ぎにホテルのロビーへと向かい、アヤカを待つ。
 それからアヤカが戻ってきたのは夕方かそれとも夜か。ぼくがいるというのを誰かに聴いたのか嗅ぎつけたのか。アヤカがぼくのところにやってきたのだ。
「研修終わったんだ」
 そう一声かけるとアヤカはふてくされたように、行き場所を失ったかのように首を縦に振る。彼女もぼくもどういうわけだかお互いに目線を彷徨わせた。ぼくは誰とも交際したことがないからこその不安であり、アヤカはぼくに対して明らかに恐れの感情を持っていたからでもあった。ぞろぞろと若い男と女たちが、大きなバッゲージを持って、帰ろうとしている。その前にぼくとアヤカだけを見つめながら。
「あんた、本当に趣味が悪いわ」
「でも、声をかけてくれた」
「ねえ」アヤカは明らかに苛立った声を放つ。「ジュンくんは私に何をしてほしいの?」
「何をしてほしいんだと思う?」
「おちょくるのは止めて。恋人ごっこならお断りよ」
「まさか」
「じゃあ何のために?」
「うーん、そんなかっちりした答えじゃないんだけれど、良いかな?」
「どうぞ」
「その前に」アヤカに座るように促す。アヤカがロビーのソファーに腰を下ろした。「ぼくは別にアヤカとそういった関係になりたいと思ったわけではないんだ。ただ、単純に好きという気持ちがぼくは抑えられなかった。だけれどそれは何も、ユウキとの関係を壊してほしいと言いたいわけじゃない。大体、お断りと言われた時点で、ぼくにはそんなことをお願いする資格は消え失せているわけだしね。ぼくは君に会いたくて来た。それにアヤカが応えてくれた。ぼくにとってはそれだけで十分なんだよ」
「ロマンチストなのね」
「どうだろう」
「だけれど、目が嘘をついてる。壊してほしいと思っているわ」
「気持ち悪く思うかい?」
「そうね」アヤカがため息をつく。「嫌いではないわ」
 それから一回、キスをした。ねっとりとしたキスではなく、まるで付き合いたての恋人がするような、フレンチキス。帰りの電車、荷物を持ちながらアヤカとぼくはずっと話し込む。慌てて買った特急券とそれに二人で乗り込むと、ガラガラの特急席でぼんやりと夜景を眺める。
「旅行の帰りっていつもそう。退屈で何か早送りされていくみたい」
「ユウキと旅行に行った帰りもそうなるの?」
「そうねえ。窓の外をぼんやりと見てる感じになるわね」
「ぼくとユウキの違いは?」
「そんなくだらない質問をしないところかしらね」
 思わず、ぼくたちは笑ってしまう。
「だけれど、余裕がないのね。焦っているのかしら」
「いっつもタイミングが合わない」
「なんの」
「恋人になりたいと思う人たちの」
「タイミングを勝手に逃しているだけでしょ」
「今でも?」
「さあ、どうかしら」
 アヤカは不敵に笑った。それから、窓の外を眺めてぼんやりとしている。やがてトンネルを抜けていくと、きらびやかな街のネオンが世界を彩り始める。ぼくはそんな彼女へと向けてポツリとこぼす。
「何を考えているの」
「恋愛に関する考察」
「何それ」
「ねえ、昔ってお互いに何もないのにただ愛することができた。いいえ、むしろ時間だけはあるのに無限大に何かがある気がしていて、例えそれが世の中の論理に反していたとしても愛することができた。それが大人になって行けばいくほど、年収やら学歴やら、見た目やら誠実さやら、優しさやら、価値観やら。そういったものにどんどん縛られていくの」
「結局ぼくは大人になって行けばいくほどそういうレッテルによって弾かれていくってこと?」
「それもあるけれど……。たまには無邪気な恋愛をしたい。一瞬だけでも、大人になんてなりそびれたままでも。それで世界が回ったとしても良いから」
「ぼくはそういう都合のいい存在なの?」
 首を横に二回。それはとても綺麗な動作に見えた。
「だけれど、こうしてまた二人きりになれるかもって思って」
 電車の中には誰もいなくて、二人きりの言葉が特急列車の車内に浮かんでは消える。それから、ぼくの左腕を取る。
「インク、持ってる?」
 都内の駅に着く直前、彼女はぼそりとこう言った。あるよ、と返した。

 それからアヤカは左手の甲に文字を連ねる。
「promise」と描かれた言葉は守られることさえ無いかもしれない、危うい約束。きっとユウキの家へと遊びに行くときにはもう消えてしまっているかもしれない。描き終わった時、電車は終着駅に滑り込んだ。
 そして、もう一度フレンチキス。叶うことが無いかもしれないぼくの好意に、壊すことさえできないほど憶病なぼくに。ぼくは情けなくなる。
「そんな顔しないで」
「おかしいな、笑っているつもりなんだけれど」
「本当は泣きたいんでしょ?」
「泣けないんだよ」
「じゃあ、そんな悲しい顔を止めて」
 ぼくは呆然としてしまっていた。これが誰かを好きになることなのかと思うと、苦しくて痛くて、辛くて。それなのに、最後。涙だけが流れない。だから、ぼくは彼女を抱き寄せる。それしかできることが無くて、それしかぼくには出来なくて。せめてものぼくの意地で。
「ジュン」
 アヤカの目を見ると、目じりに涙が溜められていて目を細めている。それは今まで見た、どんな彼女よりも美しい姿をしていた。それから、ぼくとアヤカは別れた。ぼくは一人で。アヤカはユウキの待つ家へ。
「無邪気な恋愛の約束を」
 こう言い残して。天を仰ぎ、苦笑いする。思わずぼくは彼女の首を締めてやろうかとさえ思うんだけれど、そんな必要はない。手の甲に描かれた守られるかさえ怪しい「約束」は、きっとぼくたちの心の中に刻み込まれる。手の甲から消えてなくなったとしても。それはぼくとアヤカしか知らない小さな「秘密」なのだ。

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