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幸せになるため生まれ、そして誰かを幸せにするため生きていくんだ

頼んでもないのに生まれてきてしまった。

生まれてきた事実を恨むことがある。大して器量が良くなくて、地頭がそれほど良くなくて、極め付けに役立たずな自分が嫌で、消えたくなる時がある。

世の中には幸せなことがいっぱいあるよ!なんて言葉はいらないんだ。もう「生きること」が苦痛なんだ。顔でも何でも、秀でたところがあれば人生楽になった?いやそれはそれで苦しそうだ、あの橋本環奈ですら叩かれてる時あるし。それに環境のせいで人生クソになる時だってあるだろう。環境のせいにするな、と言う人もいるけれど、子どもの時の周りの環境はまちがいなく変えられなかったと思うし、その時の環境は、その後の自己肯定感や人格の形成に大きく関わっていたとも思う。

ある時は、となりに座る人がいたく呑気に見えて腹が立つ。小さなことで悩んだり苦しんだり、怒ったり涙を流したりする自分が馬鹿みたいに思える。彼らは彼らなりに悩み考えているんだと頭で理解していても、「なんとかなるさ」みたいなことを言われると、君たちに何がわかるんだとカチンとくるのだ。

だけどわたしたち人間は皆、幸せになる素質がある。幸せになる権利がある。幸せになるため生まれ、そして誰かを幸せにするため生きていく。

ストレスを感じずに生きている人は幸せだ。でも、不幸せを数えるのが得意なわたしだって、幸せになる天才なのだ。道端の花が綺麗だから幸せで、かわいい服を買ったから幸せで、ご飯が美味しいから幸せになれる。特段に刺激を求めなくても、わたしの感受性豊かな心はすぐさま外界に反応するから、人よりもたくさん幸せを感じることができる。だから、わたしもみんなと同じくらい「幸せセンス」があるのだ。

頼んでもないのに生まれてきてしまったと悲観するわたしは、まちがいなく幸せになるため生まれてきた。どんなに楽しいことだけこの先の人生に待っていようと、やっぱり生まれてこなければ良かったと思う気持ちはどこかで持ち続けていると思う。だけど、生まれてきた意味を自分から見つけなければいけないとしたら、それは「幸せになるため」しかない。

幸せになるため生まれてきたということは、自分のことだけ考えていればいいのか?わたしは、そうではないと思う。わたしはひとりで生きてきたわけではないからだ。家族や友だちはもちろん、見知らぬ人からも支えられてきた。わたしが今横たわっているベッドは、十何年前に誰かが組み立ててくれたもので、今口に入れたスナックパンは、きのう誰かが作ってくれたもので、今着ている服は、遠くの誰かが縫製してくれたものだ。わたしの生は誰かの生によって成り立っているのである。でも、わたしはその人一人ひとりにお礼を言う術を持っていない。

だからわたしは、道ゆく人に親切にするのかなあと思う。例えば、道を聞かれたら教える。ものを落とした人がいたら息を切らして追いかける。肩がぶつかれば謝る。道に落ちているお財布は自分のものにせず、警察に届ける。これらはぜんぶ、自分のことだけ考えていたらやらないことだ。なぜなら、誰かを幸せにする行為だからである。きっとわたしは、誰かを幸せにする連鎖がつながって、遠くの見知らぬ誰かにまで届いてほしいと思っているのだろう。

別に大げさなことではない。いつも奢ってくれたゼミの先輩は、「後輩が入ってきたら君たちが優しくすればいいんだよ、俺たちもそうだったから」と言っていた。直接的に奢り奢られた関係のところは見知らぬ人同士ではないけれど、あの時の先輩が、これから現れるはずである見知らぬ人(後輩の後輩)の幸せを願っていたのはまちがいない。

わたしたちはみんな、「幸せになるため生まれ、そして誰かを幸せにするため生きていくんだ」と思う。ぼそぼそと不幸せを数える傍らで、いっぱいの幸せに指を折ろう。そして生まれてきたことを心のどこかで恨みながらも、誰かの幸せのため、誰かの財布を届けるのだ。






タイトルは、Buono!の『ロッタラ ロッタラ』からとりました。そしてまったく鬼滅関係ない内容でした。サムネ詐欺。

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