「善を行なってるつもりで悪を行なっている状態」がクリスチャンにはあり得るが…
「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行なっています。」(ローマ7章)とパウロは言った。
クリスチャンはこのパウロの告白を体験的に知っている。
神の声に従うか、悪の囁きに従うかの葛藤が私たちにはある。
内村鑑三はこの聖句からクリスチャンは二重人格者だと著した。
「キリスト信者の実験に訴えて見る時、かかる二重人格の苦悶が事実上クリスチャンにあることはすこぶる明白である。…神に従わんとする心と肉に従わんとする心とがともに我がうちに在して、そこに激烈なる戦いがあることは、全てのクリスチャンの実験するところである。これ、いわゆる内心の分裂である。…」(内村鑑三の「ローマ書の注解」より)
二重人格の性質と戦うことは苦しいことである。が、同時に幸いなことである。
戦えていること、それ自体が素晴らしい。
というのも、善を行なっていると思っていても、それが悪であることが私たちにはあるからである。
「私は、善を行なっています」と言いながら、それが「罪」であることほど恐ろしいことはない。
預言者ナタンが語った「例え話」を聞いてダビデ王が憤慨した(自分のことと思わず)ように、私たち人間は「自己正当化」の達人である。
自分の心の奥に潜む悪を見て見ぬ振りをしてしまうことがある。
「罪はクリスチャンのまっとうな判断力を鈍らせる」−ロイドジョンズ牧師(「旧約聖書から福音を語る」より)
いかにも善を行なっているような態度と言葉をもってなされている働きも、「悪い動機」が潜んでいる場合がある。
「善を行なってるつもりで悪を行なっている状態」がクリスチャンにはあり得る。
だからこそ、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ」(箴言4章)という格言を覚えていることは重要であり、「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行なっています。」と心から告白し、悔い改めへ向かうことができることは幸いである。
たとえ、改めることがまだできていなかったとしても、改めるスタートラインに立っているのだから。
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙)
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカの福音書23章)
最後までお読みいただきありがとうございました!
God Bless YOU!!!
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