希死念慮に思うこと ― 自殺を遂げないのは偶然、自殺を遂げるのが必然
「本当に死にたい。」とただの一度でも考えた経験のある人は その欲求と生涯ともに在り続けるのだと、私は考えている。
人としての真底から自死を欲する考え(以下、希死念慮)は、一度生まれたのちはその人の生において、強まったり弱まったり、彼/彼女を自殺遂行に駆り立てたり、あるいは寛解したり、さまざまに変わり得るものの、死ぬまで一生なくなり得ない。常に最期まで、その人とともに在る。希死念慮とはそういうものだろう。
では、なぜ死なないのか。それはすべて「偶然」である。平たくいえば、「たまたま」だ。生きる理由など何一つない。当事者を生かすものなど何一つない。それどころか、「本当に死にたい」のである。だから本当は、初めて希死念慮が生まれたそのときにこそ死んだはずなのだ。それが必然だ。いうなれば、最も自然だ。希死念慮とは、本当に死にたいとはそういうことだ。
しかし、偶然死ななかった。その後も今までも、今日までずっと、すべては偶然だ。なぜなら、その実様を変化させながらも、希死念慮は常に自身とともに在るのだから。いつ死んでもおかしくないのだ。否、今日の今死ぬことこそが必然なのだ。昨日は死ななかった、今日は死ななかった、そして、明日は死なないかもしれない。すべては偶然だ。
結局、心より死を求める当事者の生は「昨日は死ななかった」という偶然を一日々々重ね続けているに過ぎない。
(ただし、その実様としては 初めて希死念慮を産んだ日から今日まで日毎、一日一度果てなく死に続けている。)
希死念慮とともに在る人は常に、今日、今、このとき、死ぬことが「必然」なのだ。
【 お し ま い 】
私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。