米津玄師の新曲MVを部活の後輩が作ってたらしい
途中脱線してますが、「自分も頑張ろう」という感じのnoteです。
私は長文のお気持ち表明をしてしまうくらい米津玄師が好きです。
いや、自分の中では単なる好きという気持ちを超えた、特別な感情を一方的に持っていたりします。キモいですね。
米津玄師が「米津玄師」と名乗る前から15年以上彼の活動を追っていた自分には、一時は非常に狭い界隈の中の、少し歩いていけるくらいの距離に彼がいた気もしていました(あくまで気がしていただけかもしれませんが)。
でも時を経て、今では自分の想像の範疇を超えた、とてつもなく大きな存在となっています。
「米津玄師って知ってる?」
「え?もちろん知ってるわよ!」
68歳のミナコ(母)が電話口でそう言いました。
まるで「人って右利きの方が多いんだよ?」とでも言われたかのような、そんなの当然でしょ、とでもいうような口ぶりでした。
とうとう米津玄師のことを知らない人を探すのが難しくなってきました。
自分にとっては、物陰で友達とこっそり楽しんでいた変わった趣味に親も横から加わって来たような、自分の中で分断されていたはずの世界の境界が溶け出してかき混ぜられてしまったような感覚がありました。
そんな米津玄師の新曲がらくたのMVを地元の後輩が作ったらしい。
動画末尾のスタッフロールのトップに表記された「Director Satoshi Watanabe」の文字。監督 ワタナベサトシ。
「すごい。あのサトシとは思えないわ。」
彼のことを小学校から知っているミナコと自分も同じ気持ちでした。
あなたもやましたでしょう
本人の見えないところで個人のことをアレコレ書きすぎるようなことはできませんが、少し彼のことを思い出していました。
小さな町のスポーツ少年団で、私達は彼のお父さんからバスケの指導を受けていました。
高校で教員をやっていた彼のお父さんは忙しい合間をぬって、時にスーツのまま田舎の体育館まで指導しに来てくれる真面目で熱いおじさんでした。どんクサい自分は何度も怒られました。
2学年下の彼は自分がバスケを始めた小学5年生のときに3年生で参加していました。
2学年違いなので中学で一緒にバスケをしたのは引退までの数ヶ月でしたが、その後私も彼も彼のお父さんがかつて長年勤めていた仙台の高校へ進学したため、田舎を離れても何かと縁がありました。
そんな自分から見ても、いやそうでなくても、とにかく自分たちが知っている彼の印象と現在の仕事が全く結びつきません。
彼の父こそ「ワタナベ監督」と呼ばれてはいましたが、息子である本人は人を率いる監督というよりはむしろ少しお調子者で先輩から可愛がられる後輩気質というか、少なくとも上級生の自分からは当時はそんな風に見ていました。
彼の描く、激しい中にもどこかそれに反発するような愛情や安らぎを含んだ体温を感じられるような映像世界の中に、そんなキャラクターの一部が反映されているような気もしました。
とは言え関係人口の少ない田舎特有の、不必要なまでにお互いを高解像度に把握し合っしまう自分(自分たち)の記憶の中の彼のイメージと、クリエイティブやら映像やらアートというものはどうやってもつながらないのでした。
去年くらいから、彼の活躍は地元の母親ネットワークの中で密かな話題となっていたようでした。
ミナコづてに彼のことは耳に入ってきて、調べると自ら会社を立ち上げてPanasonicやポケモンなどの大手企業のCMやVaundyなどのアーティストのMVを手掛けていることを知り驚きました。
こうまで人生とは非連続的で不可解なものなのか、と興味深く考えさせられました。そして、そうであるがゆえに彼が積み上げてきたであろう苦労や努力の膨大さも容易に想像できました。
そしてあの米津玄師のMVまで作るとは。
自分も頑張らないと、と思わされました。
クリエイティブを生業とする人間であれば誰でも一度は何かを成し遂げきりたいと妄想します。
でも結局99.999%の人がどこかで、何かのタイミングでそんな気持ちにも折り合いをつけてしまい、上ではなく横や下を見ながら、とぼとぼとと自分の心地よいポジションを探し出します。ここ数年の自分もそうだった気がします。
しかし、自分が夢見ていたクリエイティブの世界で圧倒的な結果を生み続ける人が身近に出てきてしまった。
悔しい!彼が血の滲む努力を重ねている間に自分はどれだけのことができていただろう。
できることなら彼と会って話を聞いてみたい。でもその時は地元の先輩後輩では決してなく、クリエイターとして、仕事人として対等に向き合える日を迎えたい。
そんなことを考えていました。
ただ、もし、一言だけ彼と今言葉を交わせるのであれば、どうしても伝えたいことがあります。
Wikipediaで出身地が仙台市になってるぞ と
あなたもやましたでしょう。
私のハンドルネームはよく人名と間違われるのですが、こういうときのために地元の地名にしていたのです。(これはさすがに嘘)
立派な人の本を読むことも、素晴らしいデザイン作品に触れることも、こういう事件的なかたちで身内に背後から刺されるような衝撃には敵いません。
そんな事故的なものをきっかけに突き動かされてしまう安っぽい自分の気持ちを、風化する前に恥ずかしげもなくスケッチし、ネットに刻印しておくことで自分の逃げ道を塞いでおくnoteです。つまり彼にとってはただのもらい事故。ごめんなさい。
こんなこと書いてもダサいだけで逆ブランディングにしかならないよ、とも思いながら、それでも何となく今の自分の気持ちをデジタルタトゥーとして残したくなる衝動に任せてツラツラとキーボードを叩いてみます。
ヘッドライトに押し出されて僕らは歩いたハイウェイの上を
多くの同世代たちもそうであるかもしれませんが、私にとって米津玄師は特別な存在でした。
少し自分が見ていた米津玄師の姿を書かせてください。
15年前の2009年、ニコニコ動画のランキングに突如として現れたPersona Aliceという怪しげな動画を目にしました。
投稿者名は当時無名の「ハチ」というクリエイター。後に米津玄師と呼ばれる人物を、自分を含めた世間の多くが初めて認識したのが恐らくその瞬間でした。
決して音はキレイとは言い難いものでしたが、JPOPを基盤としながらも独自性のある作風や個性的な自作のMV(当時彼はマウスで絵を書いていました)で一気にファンは増えていきました。
というか普通に考えてマウスで絵を書いて動画にするっていうのがもはや狂気の沙汰です。
ペンタブを買うお金がなく、行き場を失った創作へのリビドーが暴発してしまったような、そんな素っ裸の感情を真正面から投げつけてくるような異常性をこの動画からは感じ取れました。
当時は自分も10代。大学生となってパソコンを手に入れたのもあり、興味があったボーカロイドの音楽制作を始めたばかりの頃でした。
右も左も分からない中でがむしゃらに必死でパソコンにくらいついて、音楽っぽいもの作ってみては動画投稿をしていました。
そんな中で颯爽と現れて界隈の話題を一気にさらっていった同世代の才能に圧倒されました。
年齢は変わらないのに、独特な世界観と荒削りながらも膨大な熱量を感じる作品に心が動かされました。
そして自分ももっと本気で制作に向き合わなければ、と思わされました。
2009年当時ニコニコ動画界隈で大きなムーブメントとなっていたボーカロイドは不定期にファン向け雑誌も発行されており、私もチェックしていました。
そこに彼のインタビュー記事が載っていました。Persona Aliceで脚光を浴びてから数ヶ月で雑誌掲載というのもすごい話と思いましたが、そこに載っていた彼の音楽制作環境にSONAR7というDAW(音楽制作ソフト)が書かれていました。
迷わず私もそれを買いました。確かちょうど最新の8が出たころだったので、清水の舞台から飛び降りるつもりで1ヶ月分のバイト代をぶち込みました。
それまでは数千円の初心者向け作曲ツールを使っていたのですが、SONARは当時のDAWの人気をCubaseと二分していた、プロも個人制作で使うくらいの本格的なものでした。
そんなものをMacとWindowsの違いもよくわかっていなかったような自分が扱えるわけもなかったのですが、若さにまかせてとにかく寝る間も惜しんで音楽制作に食らいつきました。
周りに音楽制作の相談をできる人なんかもちろんいないので、島村楽器でDAWの使い方無料セミナーが開催されると聞けば、電車に揺られ片道1時間ちょっと。秋葉原まで何度も通い、店員さんに質問攻めをしました。
当時の自分を常に突き動かしていたのもやはり「悔しい!」という気持ち。
2009年当時のボーカロイドはまさにネット界隈の一部でカルト的な人気を博しており、多くのクリエイターたちが盛んに楽曲を発表していました。
ハチ(米津玄師)をはじめ当時から有名だったクリエイターは何人もいて、そういった人たちの作品はもちろん素晴らしいものだったのですが、それ以外にも自分とどっこいどっこいの、数百再生そこらの楽曲にもめちゃくちゃな名曲がそこかしこに隠れていました。
そんな曲に巡り合うたびに、頭に雷が打ち付けられるような感覚に襲われていました。
そして自分も聞く人をこんな気持ちにさせてみたい、頭をトンカチで打ち付けるような衝撃を与えてみたい、と考えながらも、そこにまで技術が全然達していない自分にもどかしさを感じていました。悔しい。
そんあある日、ボーカロイド楽曲の投稿を始めてから1年余り経った頃に投稿したある曲が急な再生数の伸びを観測しました。
どうやら有名な歌い手の方の目に自分の楽曲がとまり、彼が「歌ってみた」動画を投稿してくれたことで本家動画である自分の動画の再生数も回り始めたのでした。
その楽曲はそれまでの自分の作風とは全く異なる、ちょっとヤケクソ気味に作った曲だったのですが、その歌い手の方のお陰で再生数は日に日に伸びていきました。
当時はまだ出始めでマイナーなボーカロイドだったGUMI(Megpoid)を使用していたことも、熱心な当時のGUMIファンの支持を集める結果にもつながったようでした。
そこから2次創作の高クオリティなファンMVなどが次々投稿され、本家(私)の動画は当時の有名ボーカロイド動画としてのひとつの指標とされていた10万再生を超えました。
そして勢いそのままにその年の暮れにボーカロイドの同人即売会に自主制作CDを出しました。
売上は150枚ほど。上々の売れ行きでした。その場で同人ショップの営業の方から委託販売の声もかけてもらえました。ガッツポーズ
ところが一方、同じ即売会会場でレベルの違う熱気を放っていたブースがありました。
通常即売会ブースは屋内に机を置いてそこでCDを並べて販売するのですが、一つだけ屋外に設置されている異様なブースがありました。
そしてそこに並ぶのは屋内では収容しきれないであろうことが容易に想像できるほどの行列。
ハチの2ndアルバムを販売しているブースでした。もちろん本人が手渡しで1枚1枚売っていました。
3000枚売り上げた、という噂は即売会後の打ち上げ会場ですでにもっぱら酒の肴となっていました。自分が浮かれてガッツポーズした枚数の20倍。20ガッツ。それくらいにハチはカルト的な人気を誇る伝説的なクリエイターでした。
ちなみに当時発売されていたボカロアルバムは今でも公式からサブスク配信されています。
このアルバムの一度聞けば、当時なぜ彼がそれほどまでに人気だったのかは納得できることと思います。
音楽性こそ現在と異なりますが、今聞いても全く色褪せることのない、彼の中にあるポップへの深い敬意と探究心が感じ取れます。
個人的にパンダヒーロー、リンネ、白痴あたりは必聴。
そしてアルバムのラストを飾る遊園市街はなんと本人歌唱。え、こいつ、歌うぞ!?というのは当時界隈をざわつかせました。
ボーカロイドのアルバムに本人歌唱の曲をいれるというのもそもそも斬新で、今にも続く彼の遊び心を感じさせられます。
もし歴代同人ボカロCD人気投票なるものがもしあったとしたら間違いなく上位に入るであろう、ひとつの歴史を刻んだ名盤でした。
さて、そろそろ気づいてきましたでしょうか。そうです。ちょっとこのnoteの方向性が迷子になっています。
何の話をしてたんでしたっけ、。
努力・未来・A Beautiful Star
まぁとにもかくにも、そんだけ米津玄師をずっと追いかけてきた自分にとっては彼のMVを自分の知り合いが作ったなんてことはとんでもないことだったわけです。
そして冒頭にも述べた通り、自分も後輩と(分野は例え違えど)クリエイティブの世界でもう一度出会ってみたい、という目標ができたのでした。(自分の知らないところで勝手に目標にされている後輩には申し訳ないですが)
明確な目標も定めることなく仕事を辞めた手前、目標に飢えていた自分にとっては渡りに船(? 使い方合ってますか?)
そんな目標もできたところで、一旦自分がやっていること、やろうとしていることをリストアップし、それらが目標に寄与するのかどうか?という観点から今一度自分の活動を見直してみるとどうなるか考えてみました。
noteでの発信
寄与度:△
noteでの発信活動がそのまま目標につながることは今のところ考えづらいように感じています。しかし、文章力を鍛えたり日頃からテキストを打ち込む筋力を鍛えることで、例えば彼の作品のレビューや記事をささっと書けたりもするかもしれません。noteで1100人近いフォロワーの方がいてくださるのも後押しになってくれる気がしています。
とにもかくにも、正攻法ではなく何かしら変化球でのつながりになりそうな気がしているので、こちらはキープしたまま方向性を時々考えてみようと思いました。デザイン制作
寄与度:◯
自分が持っている能力の中で今のところ最も自信も経験もある部分ではありましたが、色々とこれを機に方針を改めて整理する時期にもきているように感じました。
まずこれは会社を辞めて良かったことでもありますが、自分の名前が表に出なさそうな仕事はしない、ということを考えました。会社員として働いていたら前に出るのは会社名やせいぜい事業部の名前で、個人の名前はなかなかフィーチャーされません。
また、受託業務であっても、リーフレットやらパワポ資料の修正やらは自分の名前がこれも出ないためあまり適しません。
やるなら事業づくりの中のデザイン、ビジネスを駆動させるデザイン。
例えば単にロゴだけ作るのではなく、事業の1メンバーとして、上流工程から事業全体をデザイナーの立場でマネジメントするような働き方をしなければならないように感じました。「このデザイン私がやりました」ではなく、「この事業にデザイナーとして携わっていました」という仕事。そういった高カロリーなデザインの関わり方を探す必要があると考えました。YouTubeでの発信
寄与度:✕
YouTubeで会社員向けの簡単なデザイン講義動画を上げており(◯)、退職後最も時間をかけているのがここでもあったのですが、これはどう考えても目標の達成に関係しなさそうです。あまりに彼が戦っている戦場とは違すぎる。ちょっと何かしら変化を起こすかしないと、真っ先にリストラ部署の一角になりそうです。英語学習
寄与度:△
今月からフィリピンのほうで、退職の目的の一つでもあった3ヶ月間の語学留学へ行ってきます。英語ができることで何になるの?とも思いますが、英語ができることで自分の可能性(≒関係人口)を拡大させることができるため、ここから2の事業の中のデザインにつながるような施策が生まれるかもしれないと考えています。
英語力はダイレクトに目標達成に寄与はしないだろうけど、持っておいても決して損ではない能力のようにも思えます。音楽制作
寄与度:◯
あれだけ没頭していた音楽制作もどんどんやらなくなり、何かのきっかけで年に1曲作るかどうかのペースになってきたのですが、とは言えここでの目標達成にはある意味最も正攻法なアプローチでもあります。彼の作品に音楽で携われるようになれればいい。
ただ、アプローチの方向がまっすぐなだけでもちろん全く現実的ではありません。自分の制作のブランクはものすごく空いてしまっているし、彼の作品に携わるにはそもそもとしてプロと同じ土俵の上で戦うことになります。
さらに時代が望む音楽と自分との趣味嗜好の乖離も感じています。要するにおっさんになってしまったのです。
それでも愚直にまた音楽制作を初めてまた0から創作界隈にクリエイターとして入っていく道もあるのかもしれませんが、その未来が自分の中で全く描けません。自分の能力的にも、音楽に向き合うモチベーション的にも、ちょっと無理かもしれない。
丁寧に時間をかけて積み上げていくことが無理なのであれば、ひたすらバズを狙った楽曲を作って一発を取りに行くことも考えられますが、そんなレッドオーシャンに飛び込むほどの胆力もやる気もありません。
とは言え、いつか何かにつながる可能性はあるように感じているので、思い立ったらまた音楽制作を無理ない範囲で続けてみようとも思いました。
自分はこんなことを考えているよ、こんな音楽が好きなんだ、ということを創作の世界で表現することは、今後もマイペースに続けていきたいと思えました。
あとは2のデザインとこのあたりを組み合わせられたら面白いかもしれません。事業の開発の一環で歌を作ってみる、みたいなものがあればすごくワクワクしそうです。
何となく書き出してみると、2がやはり筋が良いように思えました。それも単なる受託業務ではなく、事業の中に入り込んだ、デザインから生み出すものづくり。その点を軸足に据えながら、他の要素も育てて様々な可能性を探っていくのが良さそうに思えてきました。
漫然と、自分は何のためにこれをやっているのか、と考えてしまうことが1日に5万回ほどあるわけですが、こういったかたちで何かの指標をもとに整理してみると「あ、案外自分が進めてることって無駄じゃないのかも」ということを改めて感じられました。
がんばるぞー
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