自分の天命は「最適化する」ことだったのかもしれない。

昨年7月頃からコーチングに通っているんですが、先日の会で衝撃的な気づきを得たので備忘録までにnoteを更新することにしました。

※基本的に自分の思考整理なので有益性は皆無かと思いますが、一応「#自己分析」「#自己理解」「#自分のミッションの見つけ方」というキーワードに対しては多少の示唆が得られると思います。

自分はいつも「自分は何を目指すべきなのか?」という曖昧かつ将来的なテーマを設定し、前回からの行動や成果をコーチにシェアしつつ、自分の思考や意向の変化を掘り下げていくような時間の使い方をしています。

今回も同じようなテーマで話し始めましたが、今回は特に「自分とは何者なのか?」という質問から掘り下げる方法で進めました。

※簡単な自分史は下記の通り

高校以前の経験で「世の中には幸せな人がそんなに多くないのかもしれない」と思う原体験と仮説を持ち、大学入学後「世の中に影響を与えられる(幸せを増やせる)人になるために大きく成長したい」という想いだけで長期インターンを転々としていました。また、その傍らで高校から初めていたラグビーを続けたり、楽しいことが大好きなので学園祭実行委員会に入ったり、未知を既知に変えたくて色んなアルバイトをやってみたりと、多動的な学生生活を過ごしてました。この活動の中で、自分の身近な人が大学を卒業するたびに「学生のままでいたい」「働きたくない」「仕事がおもしろくない」といった声を聞くことが多く、「幸せを阻害している根源的な課題はこれか」と気づき、それを解決するために前職(Shirucafe)にジョインしました。その後、急速的に労働市場は様変わりし、コロナウィルスの拡大によって半ば強制的に従来型の雇用慣習は崩壊していきました。この未曾有のウィルス被害によって世の中の不安は増長しました。特に経済的な不安は顕著で、自分の身近な人(企業)も含めてお金に関して強い怒りや、悲しみ、不安を持つ人がたくさんいることに気がつきました。「幸せはお金では買えないけど、幸せになるために必要なものはお金がないと買えない」という当たり前の仕組みの意味をよく理解した瞬間でした。そこから個人の経済的な不安を解決できる事業に携わりたいと強く想い、現職のFundsに入社しました。一方で労働市場の課題とはまだまだ向き合う必要があるため、よりその課題を探求し、解決する術を見つけるべくGame Changersを創業し、現在は二足のわらじで活動をしています。

ここまでは色んなイベントの登壇時や、取材等でも繰り返し話しているような内容で、自分にとって何度も振り返って言語化してきたエピソードでした。しかし前職を離れたこの一年間、有り難いことに色々な活動に携わらせていただき、良くも悪くも多種多様な価値観、人、考え方に触れ合ってきました。その経験を通して、自分の「この社会に幸せを増やしたい」という根本的なwillに対して一抹の不整合感を感じつつありました。

極論もありますが、このwillを持っているものの、以下のような問いを答えるのが非常に難しく感じていました。

「幸せを増やしたいというのは、幸せの人をもっと幸せにしたいの?」
「たとえ犯罪を起こす人であっても、その人の幸せにコミットできるの?」
「幸せってどうやって決めるの?一人ひとりの幸せはどう定義するの?」

これらの質問に対して、幸せだと自信を持っている人に対しては正直「そのままでいい」と思うし、犯罪者(とまでは言わないが害ある人)に対して幸せをコミットできるほどの聖人でもないし、確かに一人ひとり幸せの定義は異なり、感じ方も三者三様であると考えていました。

では「今幸せだと感じられていない人を、幸せにするのがあなたの使命なの?」と聞かれると、それも納得感があまりなかった。というのも"幸せではない"という結論に至るまでの変数が多く、これでは何も言っていないのと同じような感覚だったからです。

なので「自分にとって許せない不幸せとはなにか?」という問いに変換して掘り下げることにしました。こう考えると、暴力に晒されていたり、民族的、人種的、思想的な差別を受けているという生存欲求次元の不幸せもスコープに入ってくるのですが、それは非常に重要な問題であると認識している一方で、自分の使命ではそこにコミットできるような原体験も思想も持ち合わせていないことに気づきました。

では何が"自分にとって"許せないものなのか、それは「幸せになることを諦めていること」であると気づきました。

コーチングを通して自分自身の原体験をさかのぼっていくと「しんどい日々が当たり前だ」と一種諦めてしまっている状態が自分にとっては最も辛く、虚無感に苛まれ、あらゆる行動のモチベーションが失われていました。また周りを見渡しても「仕事は耐えるのが当たり前」「やりたいことがないのは当たり前」「やりたいことをできないのは当たり前」といった、より良い未来への道筋を放棄している人、諦めている人、妥協している人。そして何より考えるという行為すらできていない人が散見されていました。

「なぜこのペインに対して自分は本気になれるのか?」

 次にこの問いを深堀りました。この問いを考える中でコーチにシェアしてもらったナレッジが「天命」でした。(これだけ見るとややスピリチュアルと感じるかと思いますが、占いや手相くらいのものと一旦は考えてください)

天命とは、生まれ持ってその人に与えられた唯一無二のミッションであり、例えその人が無意識であっても、意図的に発動しないようにしても、天命を発揮するべき時がくれば必ず発動してしまうもの、と教わりました。すなわち後天的なものではなく、先天的なものであり、自分の人生を通して一貫して発動されてきたものです。

この天命の簡易的な見つけ方は「自分の最大限の弱みとは何か」という問いをたて、それが発揮された経験を並べた後に、そのとき自分は何を考え行動し、何に後悔し、失敗と定義したか、という部分を深ぼります。その後それを180度反転させ、最大限の弱みを強みに言い換えたときに導き出されるものが自分の天命である、というプロセスでした。

最初に自分が認識していた最大の弱みは「勝てない戦をしない」ということでした。もう少し具体的に言うと、様々な活動を行う際にリスクサイドをよく気にしてしまい、リスクを回避できる(=失敗しない)、リスクを最小化できるという方法が開発されていない状況で行動を起こすということがとても苦手です。

しかし、裏返してみたときに「自分は未知なるチャレンジが苦手なのか?」という問いを立ててみると、自分史にもある通り、平均的な人と比較すればかなりレールを外れた生き方をしている自覚もありますし、前職も今もスタートアップという不確実性しかない環境で生き生きとやっています。この事実から考えると、恐らくただリスクがあることが嫌とか、先が見えないことが嫌という訳ではなく、『リスクを適切に評価して、適切な対処が打てていない状態が耐えられない』という結論に至りました。

思い返してみれば、自分の後悔はどれも適切な対処ができないことで失敗を引き起こしたことでした。それはリスクの評価が甘く、本来ではリスクではないものをリスクと定義してしまって行動できずに大チャンスを逃したり、リスク評価を誤って非適切な対応をとったことで周りに迷惑をかけてしまったりと、今思いつく限りでもいくつもあります。

そして本題になりますが、この最大の弱みを180度裏返して強みとして考えてみたときに、自分の天命と考えられるのは「最適化する(Optimize)」ということでした。(この一連のプロセスと言語化に成功したときは、身の毛がよだつほどに興奮しましたw)

最適化の定義はITの文脈から整理されている「対象の実質は維持したまま設定や内部の構造などを調整し、より好ましい状態に組み替えること」という表現が個人的には一番納得感が高いと思っています。(https://e-words.jp/w/%E6%9C%80%E9%81%A9%E5%8C%96.html

思い返せば、自分の人生は最適化の繰り返しでした。

・スタートアップが好きなのは最適化されたものがほとんどなく、最適化しがいがあるから(宝の山状態)
・(結果的に)経営企画のキャリアを進んでいるのは経営という最も最適化が困難な行為に対して最適化を目指すポジションだから
・(なぜだか)プラットフォーム型ビジネスに対して興味関心が非常に高かったが、思い返せば未だ接合されていないところに需給マッチングが起こり、特定の課題や市場が最適化されるから
・自分が一番気持ちいい瞬間は、時間やリソース等の制約がある状態で、それらを最適活用し、その時点のベストパフォーマンスを出せたこと

などなど。自分の活動には一貫して最適化が適用されているときは成功体験があり、最適化ができないことで失敗したときには失敗体験がセットにありました。これが天命というものか、、、という大発見です。

さて、最後にこの「最適化する」という天命から自分のwillを再整理したいと思います。これまでのwillは「この社会に幸せを増やしたい」というものでしたが、今回の一見を踏まえて再定義するとすれば「一人ひとりが最適な人生を歩んでほしい」というものになります。

最適は最上とも近い表現ですが、最上とは若干異なります。最上はその時点でもっとも高い成果や状態に至ることですが、自分としては必ずしもNo.1じゃなくて良いと考えています。それよりもその時点でその人にとって最も適した状態に至ることが望ましいと思います。ただ最適な状態とは、ほぼその時点の最上であるとも言えます。なので一人ひとりが最適な人生とは、幸せという区画ではなく、その感性を重んじるかどうかも含めて、その人が最も良いと感じられる選択や行動を起こせている状態と定義しています。

次に最適は論理的なものと考えられますが、かならずしも論理性の有無が最適であるかどうかの尺度にはならないと考えています。例えば相談一つとっても「悩みを聞いてほしいだけで、答えをほしい訳ではない」「解決策がほしい」「一緒に考えてほしい」というように目的は多種多様であり、論理を忘れて感情だけで話すべき、決めるべきときもあります。それは一見非合理的な判断ですが、それでもその選択がその人に最適だと思えるシーンがあるのは事実です。

そして最適は主に「可能性」という概念と対称的な関係にあります。今その選択が最適じゃなくても、これから我慢して続ければ最適になるかもしれないというように、未来に対する可能性を持つことと衝突する概念であると考えています。ここで肝心なのは『今は最適ではないものも、今後は最適になると信じる選択をする』ということを自分自身で考え、それを最適な判断であると腹落ちすることだと考えています。最適という概念は客観的な評価ができるケースも多いですが、それでも最終的には解釈に過ぎません。つまりその人が最適と思うかどうか次第なのです。

、、、

今回の気づきは以上です!ここまでもし読んだ方がいれば、拙い文章にもかからずお時間いただきありがとうございます。

企業のカルチャーやバリューが定まればその企業の行動に一貫性が出るように、個々人でもミッションが定まればその人の行動に一貫性が出るようになります。自分もどちらかといえば内省と自己理解を深めているほうと思っていましたが、この気づき前後では視力が3倍くらい高まった印象です。きっとこれからもたくさんの経験と気づきをもってアップデートされていくと思えば楽しみですね。

これからも色々なチャレンジは続けていきますが、その軸として「最適化」を意識し、未だ最適化されていない社会、市場、ビジネス、人生、判断等に対して最適化できる機会提供を目指していきたいと思います。

引き続きよろしくお願いいたします!

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