アメリカで住んでいた家が火事になりました。(続き)
Part 1からの続きになります。
カリフォルニアで住んでいたアパートが火事になりました。
東日本大震災の翌日の出来事でした。
日本でも火事の被害に遭うことはまれなのに、外国で遭うという非常にまれな経験をしましたので、Noteにアップします。
2011年3月14日(月曜日)
今日は仕事を休んで対応。今日から夏時間。
9:30
約束の30分前にRed Crossの事務所に到着。
鍵がかかっていて入れない。
夏時間が今日から始まったが、システムは調整されておらず、8:30と認識していたとのこと。
壁の時計も8:30を指していた。
さすがアメリカ。
10:00
ようやく住人が1人2人と現れ始めた。
10:30
ようやく担当者が来て始まるかと思ったら、もうすこし待てという。
「約束があるから11:30には出なければならない、1時間前から来て待っているんだ」、というと、「じゃあ15時にまた来てくれ」と言われた。
まあアメリカだから仕方ない。
何か質問はというので、ホテルをチェックアウトしなければならない、延長できないのか?と聞くと、まだ分からないという。
15時になれば分かるというで、「なんで15時に分かることが今分からないんだ?何を待っているのか?」と食い下がると、奥に行って誰かと相談したようで延泊してもよいことになった。
そこですぐに妻に電話して延泊手続きを取る。
結局追加で2泊できることになった。
11:00
ようやく説明が始まる。
211に電話すると、Short term leasingの情報がもらえたり、よろず相談ができるらしい。
また、シェルターの案内もあるそうだ。アラメダでは炊き出しサービスも受けられる。
我々家族には必要ないが、言われてみれば必要な家族はあるだろうし、よく考えているのだなと感心した。
精神的なダメージを受けた人にカウンセリングサービスもあるようで、誰かダメージを受けている人はいるかと聞かれた。
11:10
ようやく個別面談がスタート。
11:30には子供を学校に連れて行くために出なければならない。
まったく何時間待たせる気なんだ。
ここでは引越代を出してもらえるか交渉し、U Haul(注1)であれば出してもらえることとなった。それで話は終わり。
15時に来る必要はなくなった。必要事項を記入しサイン。
11:30に無理やり終った。
11:50
上の子供をOcean View(注2)に連れて行き、まだ下の子のPre Schoolに連れて行くのに少し時間があったので、警察に立ち寄る。
家に荷物を取りに入りたいといったら、家の前についたら連絡しろと言われた。
その間、妻は下の子をPre Schoolへ連れて行き、アパート前で集合。
12:20
アパートの前には、大家さん、エージェント、保険屋、リノベーション屋が集まっていた。今後の見通しを話してもらう。
しばらく部屋に入れないことが確定的になった。諦めて新しい住処を見つけることを決めた。
13:00
ホテルに戻り、昼飯。家の鍵を持ち出発。まずEl Cerritoにあるアパートを見学しに行くにした。
13:30
新しいアパートでマネージャーと交渉。部屋を見て条件を決め、手付金25ドルをチェックで支払う。
4ヶ月の短期で借りられるところは他にはないので仕方ない。(注3)
15:00頃
必要な荷物を取り出すため元のアパートに戻り、警察に電話。
アパートの前に保険屋がいたので、中に入ってもいいかといったら駄目だと言われた。
今日は駄目だから明日警察に電話して出直して来いと勝手なことをいうので、「あなたが決めることではないでしょう」と文句を言ったら、「警察に電話しても2,3日はかかるわよ」と捨て台詞を吐いてツカツカと去っていった。
まったく。
警察に電話したら消防に連絡してくれ、5分くらいで来るといったので、車の特徴を伝えて待つ。
その間にリノベーション屋が鍵をかけて帰りそうになったので、あと5分で消防が来ると言っているから待ってといったら待ってくれた。
15:20
荷出完了(注4)。
これで自炊ができる。冷凍庫に入れていた食材もクーラーボックスに入れて持ち出した。
荷だしのついでに、火元の確認をさせてもらった。
2階にあがった瞬間廊下も壁もすべて真っ黒で衝撃を受けた。
半分空いたドアの隙間から入る光で視界が保てる。
2階の一番奥が火元の部屋だった。
消防士の話では、住人はちょうど引っ越ししようとしており段ボール箱を暖房の前に積み上げていたようだ。
それに引火したと思われるとのことだった。
お亡くなりになった方はこの部屋の真上の住人だったので、煙を大量に吸い込んだのかもしれない。
我が家がこの位置にあったら、危なかった。
15:40
下の娘をPick upし、ホテルに戻る。
妻が上の娘の友人のお母さんと話しをしてくれ、夕食をご馳走になることになっているので、娘を友人の家に連れて行ってもらった。
ホテルに戻り疲れたのでちょっと寝る。
17:30
友人の家に到着。
手巻き寿司と酒をご馳走になる。ゆったりとした気持ちになれた。本当にありがたい。
娘たちも久しぶりにくつろぎ楽しんだ様子。ホテル暮らしは息が詰まるのだろう。
こんな程度で疲れるのだから、日本で震災に遭われた方たちは本当に大変だろう。
自分達のことがどうでもよく思えてくる。
21:00
就寝。
(注1)U-Haulとはレンタルトラックの会社。
アメリカ人はU-Haulを借りて自分で引っ越しをする。
Red Crossは自分で引っ越しする費用は出すが、引っ越し屋に頼んで引っ越す費用までは負担しないという意味。
(注2)Ocean View Elementary SchoolはAlbanyにある小学校。
家族連れのUCバークレーの大学院生や研究員が住むVillageという寮が横にあるため、彼らの子供たちが多く入る。
スクールマスコットはラッコ。愛称がついていたが忘れた。
(注3)8月に2度目のBar Examを受けたら事務所を退職し日本に戻るつもりだった。
恥ずかしながら1回目は落ちました。
Albanyで探したほとんどのアパートが最低1年間からの賃貸で、別のエリアに住む他に選択肢がなかった。
ただここはバークレーのポスドクの人たちがたくさん住んでいたので、それはそれで面白かったです。
定期的に敷地内で開かれるBBQ会は、日本のトップの頭脳が専門の話を分かりやすく説明してくれるので楽しみでした。
ただ、理系の人達はなんなんでしょうね、話の途中で曖昧なところや意見の相違があると立ち止まってしまい、話が一向に先に進まなくなってしまいます。
宇宙学の専門家にダークマターの話を聞こうとしているのに、最初の重力のところで止まってしまい、私がもうそこは一旦おいておいて先に進みましょうよと言っても、いやここをハッキリさせないことにはこの後の話の前提がとか言って白熱した議論をつづけていました。
この話をDukeの同級生の東工大出身の弁護士がうちに泊まりに来たときに話したら、彼らが議論する重力の話は大学で勉強する理論らしく、懐かしいと言っていました。そして、そこで議論が止まるというのも分かるとのこと。
(注4)
調理道具と冷蔵庫に入っていた生鮮食品、それと炊飯器を持ち出した。
滞在していたホテルに小さなキッチンがついていて、節約のため自炊しようとしていた。
2011年3月15日(火曜日)
今日は朝から法律事務所に出社。しかしまったく仕事が手につかない。
みんなも大目に見てくれている。
事務所のパラリーガルの方がAlbanyに住んでおり、火事のニュースを知っていて詳しく話してくれたようだった。
仕事の合間をみて大家さんのエージェント(たぶん保険会社)とメールでやり取り。
木曜の引越しの件、Depositと家賃の日割り償還の件、その他コストの負担についてエージェントにリクエスト。
OKが出ると思うが、とりあえず水曜の朝9時に打ち合わせしようということになった。
事務所には明日遅刻すると申し伝える。
Red Crossに引越しに日取りが決まったことを電話で連絡。
責任者がいないとのことで、水曜にまたかけることになった。
新住所だけ伝える。
2011年3月16日(水曜日)
(この日は日記がなく不明だが、おそらく遅刻して事務所に行き早めに帰ったと思われる。)
2011年3月17日(木曜日)
仕事は休みにしてもらい朝から引越。
U-Haulを借りて自分で詰め込んでいく。
火事でリビングのスプリンクラーが作動したため、リビングにあったものは水浸しになっているが、ベッドルームは無事で本も煙臭いくらいで無事だった。
食事の最中に逃げ出したので、テーブルの上の皿にスプリンクラーの水が溜まっている。
大半のものを持ち出し、使えなくなったものはそのまま置いておく。まとめて捨ててくれるようだ。
新居のあるEl Cerrito市はAlbanyほど学区がよくないので、せっかく学区のよいAlbanyに引っ越したのに残念だと思っていたところ、Ocean Viewの校長先生の特別な計らいにより、越境入学が認められた。
本当にありがたい。
火事はAlbanyでは大事件になっており、わが娘たちは火事で焼け出された不幸な少女たちという扱いで、皆さんに親切にしてもらった。
アメリカはこういう時に互助の精神や親切心があり、こういう国は本当に強い国だと思い知らされた。
こんな国と戦争をして勝てるわけがないと思う。
以上、10年以上前にあったベイエリアの火事の話でした。
2回にわたり長文を読んでいただきありがとうございました。
End.