問われ続ける学級経営 <5月>

 5月はどういうことをしていたかというと、とにかくデカめの柵の中で遊ばせていた、ということになろうかと思います。そういう書き方だと怒られそうなのですが、でもそういう書き方になってしまいます。デカめの柵の中で遊んでました。

 そういうわけで(どういうわけで?)、ここ最近は「先生も正解はよくわかんないんだよね。」という姿勢を要所要所で見せながら授業をしたりお話ししたりということをしています。「算数の問題なんかには正解はあるんだけど、そうじゃない場合の方が多くてね。」みたいに。
 「デカめの柵の中で遊ばせる」ということは、私の教員人生においては一つのテーマのような観念でした。お釈迦様の手のひら、というわけではないのですが、ある程度の”自由度”とか”遊び”といったものを残しておきたかったのです。

 その”柵”を狭めるものが何かと言うと、教師が”密かに隠し持っている正解”なのだろうと思います。
 教師だけに限りません。大人は、子ども(あるいは他者)との関わり合いの中でどうしても”正解”を隠し持ってしまうのでしょう。「こうするべきだ」「こうあるべきだ」という”正解”の存在は、意識的であれ無意識的であれ、他者に対して何かしらの行為行動を強制してしまうものです。言葉の、会話の、所作のさまざまな部分に見え隠れしてしまう”正解”の匂いをできる限り脱臭したい、そういうことを考えながら授業をして、話をして、というのがここ最近、私の考えていることなのかなあと思います。

 今のところ、「”正解”を求めよ」という圧力は遍在しており、それによって息苦しさを感じることもあります。時間はかかるのでしょうけども、今一度「先生も正解はよくわかんないんだよね。」ということを言いながら、子どもたちと一緒に探っていくようなことをしていきたいと思います。