なぜあの子は悪口をやめられないのか

 います? そういう子。あなたの教室に。いない? そりゃ結構なことです。だったらこの記事は読まずに自分の幸運を祝福しておきましょう。

 他者への攻撃的な言葉。要は「悪口」は、言っている本人が「無意識に自分が一番言われたくない言葉を選択している」らしいので、この辺りの解釈を広げていろいろ考えてみることにしたのがつい数日前のこと。
 言われたくない言葉をわざわざ自分から口に出して言うのは、なんだか矛盾があるように思うが、その矛盾こそがここ最近の学校現場の難しさ、児童に関わる職業群が抱える難しさなのだろう。

 言われたくない言葉を口に出す、前面に出す。つまりその言葉達に盾としての役割を担わせたいのである。「ウザい」だの「キモい」だの、それらの言葉を相手より先に言ってしまえば、自分が言われることはないだろうという理論。攻撃は最大の防御であり、なおかつ先制攻撃であればその効果は覿面である、と。当然そんな理論は成立しない。言葉はボールにたとえられるが、悪口などという悪球には当然悪球が返ってきて、言葉のドッジボールが始まる。なので、悪口を言うあの子はボールを投げる場所を選ぶ。絶対に言い返してこない立場の弱い子や、自分に同調する者の多い環境、もしくは、誰もいない場所で、ひたすら悪球を投げ続ける。自分が悪球を投げ返されることを知っているから。あるいは、投げ返されて自分もダメージを負うことを自覚しているから。

 悪口という無敵(だと思い込んでいる)の盾を得た子は、その盾を構え続ける。いずれ自分の腕が盾の重さに耐えられなくなることは想定していない。この盾がある限り自分は安全圏にいるのだと思い込む。実際は安全圏で盾を構えているだけなのに。

 悪口をやめられない子。あの子。自分の周囲には敵ばかりだと思い込んでいるあの子。想像上の敵とその敵が放つ言葉という悪球、あるいは矛を、あの子はずっと恐れている。盾を構えればそれらは防げるかもしれないのだが、周囲の状況は見えづらくなる。盾を下ろし、「なあんだ、この世界は存外安全な場所なんだな」と気づかなければならない。しかし、一度構えた盾はそう簡単に下ろせるものではない。長い時間がかかる。まあきっと、ここ最近の文科省による学級経営プッシュはこの辺りのことも要因なのだろうな。「先生方、ぜひ学校を安心安全な場として機能させてください」と。

 結論として、悪口は無意味な盾であり、言葉による虚しい壁打ちであり、いずれその重さに自分が耐えられなくなる。そんなのは忍耐とは呼ばないので、早いところ脱却してほしいなあ、と思いながらその機を窺う。盾が下ろされた瞬間を見計らって、こちらの言葉を投げ込まなければならない。