情景描写をあーだこーだ捏ね回す

 一緒に学年団を組む若い先生に、また文章を押し付ける「ダルい先輩ムーブ」をかましている。実際は自分の思考整理である。


情景描写とは何か
 小説などにおいて、物語の特定のシーンの光景や有様などに関する記述のこと。
 「晴れた日です」も情景描写になるが、「ぎらぎらと太陽が照りつける、よく晴れた日です」の方が、情景描写としての機能は強い。情景描写の機能とは、読者に対してある特定の情景・風景・様子を想起させ、「この後の展開の予想や、登場人物の感覚をよりリアルに伝える」というものである。文学作品の多くがちょっと凝った言い回しをしているのは、基本的に情景描写の機能を高めるためであり、ただ気取った文体を目指しているわけではない。
 では、どの表現が情景描写の機能を持っていると判断するのか。これは「舞台の背景が思い浮かぶ表現かどうか」を考えれば大体見えてくるのだが、やはり難しいことは難しい。そこで、季節・天気・気温・明暗などの環境や、色、音、匂い、味、手触りなどの五感に着目することがヒントになるだろう。

情景描写は何を訴えるか
 情景描写があることによって、読者の「解像能」が高まる。解像能とは何か。
 カメラやディスプレイの性能を表す指標で、「解像度」というものがある。カメラやディスプレイの画素数として表されることが多い。いわゆる8Kテレビは、約3318万画素である。これは、一つの画像が3318万個の粒でできている、という意味である。これだけの画素数=解像度であれば、普通のディスプレイではぼやけてしまうような小さな物も、くっきりと映るということである。(当然、画面のサイズは大きくなる)
 では、解像「能」とは何か。カメラが被写体を捉えた時、その被写体はいくつもの小さな粒に分解される。小さな粒はそれぞれ色のデータに置き換えられ、コンピュータでデータ処理されて写真になる。解像能とは、この過程における「粒に分解する能力」、「粒を色に置き換える能力」のことであると言える。より小さな粒に分解できれば、それだけ繊細な表現が可能になり、置き換えられる色が多ければ多いほど、被写体をより正確に表現できる。
 情景描写は、読者の解像能をある一定の水準まで高めるために存在しているのである。

情景描写から想像する
 情景描写を読んでいけば、自然と読者の解像能が最高値に達するのか、といえばやはりそうではない。そこにあるのはカメラの被写体ではなく、人が紡いだ文章、あるいは物語であるから、ただ読むだけでは文字通り「読んだだけ」になる。その先に必要なのは、(無理のある例えだが)カメラでいうところの「コンピュータでデータ処理」、人間でいうところの「理解と把握、想像と解釈」である。
 情景描写によって隅々までリアルに捉えた場面の様子から何かを想像し、解釈する必要があるのだ。この過程こそが、国語の「思考力、判断力、表現力等」になる。「ぎらぎらと太陽が照りつける、よく晴れた日です」を例に挙げてみよう。この表現でまず読者は暑い夏の日を想起する。そこから「ここにいる主人公はきっと喉が渇いているに違いない。」と自分の経験から想像したり、「暑いといらいらしてしまうことがあるから、それに関係する事件が起こるのではないか。」と、これもまた自分の経験から予想したりできる。
 自分の経験だけでなく、前後の場面とのつながりから考えることもできるし、それまでの登場人物の行動に照らして考えることもできる。中学年以降であれば、自分の経験だけでなく、場面の前後関係や登場人物の設定にも注目させたい。物語を読む時、「子ども達の解像能の高まり=物語のあらゆる要素から想像し、解釈している」が発生しているかどうかには充分注意を払っていきたい。

 ただ、物語の解釈というのはどうしても主観が大きく入り込み、というか主観に強く依存してしまう。そこが難しい。物語の中にあるのは物語の真実ではなく、物語を通して見た自分自身。フィクションとは鏡なのである。


 さて、秋に向けて、ちょっとずつ考えていくことにしましょうね。