小5国語『大造じいさんとがん』

 椋鳩十『大造じいさんとがん』。新美南吉の『ごんぎつね』(小4)、そして宮沢賢治の『やまなし』(小6)と並ぶ有名国語教材、だと思います。
 ゆえに、もうたくさんの教師たち、たくさんの実践家たちがこの教材については充分にこねくり回しており、いまさらここで何か新しいことを述べようとする意義は薄いように思います。

 そうやって書き出しておいて、さてじゃあこの記事のここから下に何が書いてあるのか。
 この教材文が5年生の、それも年度の最後の方に配置されている意味について。あるいは物語を分析的に読んでいくことで何かが喪失していく可能性について。


あらすじ

 猟師を生業とする大造さんは、毎年やってくる雁の群れがある時からぱったりと獲れなくなってしまいます。どうやら群れの頭領“残雪”が群れを指導し、危険を回避しているようです。ただの鳥のくせに忌々しい、と大造さんは様々に策を講じるのですが、どれも目立った成果を上げることはできません。いつしか大造さんの目的は、雁から“残雪”へと移っていきます。
 運よく捕らえることのできた一羽の雁を訓練し、囮に使って残雪をおびき寄せて捕らえようとするのですが、隼の乱入によって計画は崩れます。しかし、隼に襲われる仲間を、それも大造さんが訓練した囮の雁を“残雪”は守ろうと戦います。激闘の末、“残雪”は隼を追い払うことに成功しますが、深手を負います。全てを覚悟し、堂々とした態度で大造さんと対峙する“残雪”。その姿に感銘を受けた大造さんは、“残雪”を手当し、春、彼を空へと返します。青空へと飛び去っていく“残雪”に、大造さんは「また正々堂々と勝負をしようじゃないか。」と呼びかけて、物語は終わります。

学年末単元としての意義

 『大造じいさんとがん』は、“語り継がれてきた話”であることが物語冒頭で示されています。この点は新美南吉『ごんぎつね』と同様です。語り手である私が大造じいさん本人から聞いた話をもとに作った物語、という体裁で書かれており、ある程度の脚色があることが暗示されています。
 掲載されている教科書によってはこの部分を割愛している場合があり、この物語をどのように読むのかが教科書会社からも暗に示されています。また、挿絵もかなりばらつきがあり、「大造じいさん」の名前の通り老齢の猟師として描かれているものもあれば、そもそもこの物語は大造さんの若い頃の話だろう、という解釈に基づいて比較的若く見えるように描かれているものもあります。子どもたちが物語を読む前から、すでにいろいろなことが意図をもって配置されています。ここに対してまずは敏感になっておきたいところです。
 上記のことは方々で言われていることですので、ここで殊更に言うようなことではないのですが……。

 小学5年生の、年度の最後の方にこの物語を配置している意図について。
 多くの教科書会社が、年度の最後の単元を物語教材文で締めくくっています。大抵は本腰入れてやらないと物語そのものに殴り返されるような重ためのものが用意されており、その学年の集大成的なことを求められているような気分に(勝手に)なるわけです。私だけでしょうか。きっと同じ感覚の先生方がいらっしゃると思っています。

 では5年生の集大成的なこととはなんなのか。
 そもそも、なぜ『大造じいさんとがん』なのか。
 当然そこには、“5年生で学んできたこと、5年間で学んできたこと”が浮かび上がってくることが期待されています。
 一昔前によくあった「大造じいさんがとった作戦を時系列で整理する」といった活動が完全に時代遅れのものとなった今、5年生のこの時期になぜこの教材文を扱うのかに焦点して考えますと、結局“広めの柵の中で遊ばしときゃええんちゃうか”という気分になってきます。
 登場人物(といっても4分の3は鳥類)のしたこと、されたことを整理し、大造じいさんの“残雪”に対する感情がいつ、どのように、なぜ変化していったのかを捉え、この作品の主題を自分の中に形成していく。私が想定する“広めの柵”とはそんな感じのことで、場は用意するけども細かいところは任せたぜ、とする。しちゃう。
 多分そうすることが、最高学年への進級を間近に控えた5年生の子どもたちにとって最適、とまではいかなくても最善の策であるように感じるからです。学習を進める上でのレールをがっちり敷いてしまうことの功罪と、“広めの柵”を作ることの功罪を並べて考えながら、「でもやっぱり自分たちで何かを掴み取ってほしいよなあ。」と独りよがりなことを空想する。手柄は子どもに、じゃないですけど、今流行りの言葉で言うところの「自走する学習者/自律的学習者」を目標に掲げながら“広めの柵”ってどれくらい広くしようかなとぼんやり考えています。

“分析的に読むこと”について

 『大造じいさんとがん』に対しては、まあいろいろツッコミどころはあるわけです。「たかだか一羽の雁にそこまで固執しなくてもいいのでは。」「“残雪”にこだわっている大造さんだけど、生業は成立しているのか。ただの道楽ではないのか。」「雁って隼と戦えるの?」などなど。
 このような読み方を、要するに物語に対してツッコミを入れながら読むやり方を“分析的に読む”と乱暴に名付けてしまってもいいわけですが、実際に目指しているのは“ツッコミを入れた後”と言うか、“ツッコミに対するツッコミ”な訳です。
 「たかが一羽の雁に固執するその理由」まで踏み込んで考えていくことで、何かが見えてくるのではないか、そういう期待をもっています。ある子は自分の生活経験を引いて何かを考えるかもしれません。ある子は別の物語と並べることで何かを見出すかもしれません。そういった活動を夢見ているのですが、なかなか授業の実際は難しいものです。ただ、物語に対する“無粋なツッコミ”に終始してしまわないようにだけは気をつけたいところです。それはおそらく物語を味わうとか、物語の世界に浸るとかからは最も遠い位置にあるように思うので。

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