授業報告「日常を十七音で」(光村・小5国語)「たのしみは」(光村・小6国語)

 上記記事の報告です。

 「表現を工夫しよう」の一点突破で乗り切ろうとした単元ですが、いろいろと詰めの甘さが露呈し、自分の中では不完全燃焼な感覚が残っています。児童はどうだったでしょうか。自分なりに頑張れたぞ、もっとできたのになあ、よくわかんなかったな。そういったあれやこれやが混ざっているのだろうなと思います。

 今回の単元で考えなくてはならなかったのが、「なぜ表現を工夫するのか」という点でした。「表現を工夫する方法」自体は教科書にも載っていますし、わたしたちが普段の生活の中で触れる文章や音声言語による表現、広告やゲームの台詞にも登場します。それらを意識しながら文字情報や音声情報に接していれば、いくらでも見つけられるのが「表現の工夫」ですし、意識しなければ膨大な量のそれらを無視し続けることになります。
 言葉を対象とする教科である国語科にて、表現の工夫を知識や技能として中心的位置で扱うのは当然なように思うのですが、その中心だけ見ていてもダメだった、ということになります。

 「私たちはなぜ表現を工夫しようとするのか」
 「私たちはなぜ工夫された表現を高く評価しようとするのか」
 「私たちにとって工夫された表現はどんな意味をもつのか」
 この辺りの問いへの答えに、単元内では充分に迫れなかったな、というのが最終的な実感としてあります。
 「表現を工夫するのは良いことだという漠然とした観念」のより深いところについて、小学校教育段階でどこまで迫るべきなのかは今ひとつ分かりません。ある意味では信仰であり、その信仰に対してどれだけ懐疑的な姿勢をとるかを授業や単元に落とし込むのは少し難しいような気がします。

 ある児童は、表現の工夫について「説明文でやったような、『主張を強化するための事例』と同じことだと思う。」「表現を工夫すればその短歌は強化される。」と考えていました。
 ここでぐにゃぐにゃと何かを考えて書いている私よりも、ずっと“工夫”について考えてくれていると思います。