何がどうダメなのか 優里人気楽曲を読む

 夫婦揃って“優里”が苦手なんです。なぜなんでしょうか。
 ここで超ド級の「知らんがな。」が飛んでくることが考えられるわけですが、ちゃんとこの「苦手」な感覚に向き合っておかないのは、それはそれで据わりが悪いのでちょっと考えているところです。


『ピーターパン』 夢見る欺瞞的時空間

 彼のメジャーデビュー曲です。
 「バカな夢見てないで現実見ろよ。」と言ってくれる人がいないと成立しない歌詞の世界なのがよくないですね。大人という仮想敵が存在し、その仮想敵からの非難に晒されることでより一層、自分が抱いた夢が輝く、という世界。あるいは世界観。どうかと思います。「夢に無理解な他者の存在」が全くないと、それはそれで別種の課題が立ち上がってくるのですが、少なくともこの『ピーターパン』は、あまりにもその他者の色を濃く描きすぎているように思います。
 BUMP OF CHICKENの昔の楽曲『グングニル』も、他者から非難を浴びる夢をテーマにしています。ただ、『グングニル』で貫かれているのは「どんなに嘘臭くたって、信じた者にとっては“それ自体が宝物”」であるというメッセージで、この点で『ピーターパン』とは対極を為す訳です。
 『グングニル』は第三者視点から「胡散臭い宝の地図を信じきった男が大海原に船を出す」という様子を描写します。寓話的ではありますが、ある程度具体的な行動の描写がある訳です。対して『ピーターパン』においては、周囲からの声に対して「黙って見てろ」「大人の言う常識なんてものは丸めて捨てちまえ」「笑う奴など蹴り飛ばせ」これらに類する言葉の数々で返しており、要するに夢に向かう行動の描写が極端に薄いのです。
 バカみたいな夢は抱くだけでバカみたいで、かつ良いものだし、夢を輝かせていくのは他者からの非難ではなく自分の決意や覚悟なのです。夢ってのはもうそこにあるだけでいいんです。あるだけで行動の源泉として力を与えてくれる訳ですから。
 なので、ネバーランドにいなくても夢は見られるのです。
 ところがどっこい、この歌詞ではネバーランドにこもって夢を語るし、ネバーランドの大気圏を破って夢を叶えようとする。ネバーランド内限定の夢なのかと思いきや、外の世界に出ないと叶わないということであれば、そこにこもっている意味が薄いのではないでしょうか。結局ネバーランドって何のメタファなんや。このままでは、ネバーランドが安全に引きこもって大言壮語を吐きまくって自分を慰め続ける場所、みたいな単なる6畳一間の子供部屋になってしまう。
 他者が存在し、他者から不当に攻撃を受けることで初めて「大言壮語が大言壮語として成立し得る」というのでは正直パンチが弱い気がしますし、仮想敵の存在を全面に出して歌詞を展開しているのはちょっと。そういう意味で、この歌詞が「大きな夢を抱いて努力する人への応援歌」的なポジションを得るのはかなり無理がある気がします。

『ドライフラワー』 物語の不在

 彼の最大のヒット曲であり、失恋の際の女性の心情描写は共感できるとの声多数。ほんまか?
 1番は女性視点で、2番は男性視点なのだろうか、でも“貴方”と“君”で二人称が一定していないのでよくわかんないし、サビだけが男性視点のようにも思えるし、実は全編通して女性視点とも読めます。もうなんというかめちゃくちゃなので、めんどくせえこと全部ひっくるめてまとめて考えちまおう。
 ただただ未練がましい話です。
 当曲は、破局を迎えた関係を「ドライフラワー」になぞらえています。散ることが許されない、ある程度長期間その美しさを保持する形式に仮託することで、“永遠だと思っていたこの関係もいつか「きっと色褪せる」”と、諦念をもって締めくくる。恋愛模様の儚さを乾いたドライフラワーで表現する。いっそ生花として潔く散ってしまえればよかったのに、という切なさを読み取ることができます。
 ただ、これが曲者なんじゃないかと思います。生花なら散ることもできたろうに、なまじ形と面影が残るドライフラワーへの仮託によって、双方ともにどこかで何かを期待している空気が曲を支配します。「もしいつか何処かで会えたら」「君はちゃんとうまくやれてるのかな」「無視できずにまた少し返事」ときて、最後の最後に「まだ枯れない花を君に添えてさ ずっとずっとずっとずっと 抱えてよ」。この破局を忘れることなんて許さねえぞ、という強い意志を感じます。あ、もしかして共感を呼んでいるのってこの部分なんでしょうか。なら納得。結構テクニカルな歌詞だった。最後の最後に、「嫌いじゃないの」から「大嫌いだよ」へ反転するのも、「ドライフラワーとか甘っちょろいこと言ってんじゃねえぞ。この場で粉々に砕いてやろうか。」という感じがしていいですね。まあ最終的にそれを「君に添え」るんですけども。なんだこれ。もう分かんねえな。

『ビリミリオン』 可算と限界と

 自分に無限の可能性があることを信じてその一切を疑わないことがグロテスクさを演出。しかもその「無限の可能性」や「選択の主体たらんとする姿勢」さえも、お金、つまり数字という可算のものに変換して想像力の限界を自ら作り出しており、そこに“ねじれ”があるように感じます。まあ、分かりやすいからその方がいいんだろうな、というのはありますが。
 この曲については公開当初から「なんだかな〜」と思っていたのでそういう記事も書いたのですが、やはりお金に変換していることへの歪みを感じます。

『レオ』 何も言うまい

 かわいそう。

『かくれんぼ』 戦慄のごっこ遊び

 ただただ怖い。誰が失恋ソングでサイコホラーをやれと言った。もしかして優里はそういう作風なのか。私が疎すぎて知らなかっただけなのか。

『ベテルギウス』 星の数ほどの……

 「(夜空を見上げて)あれは何?」「あれはね、“星”だよ。」
 なんじゃそりゃ!! という趣旨のツイート(現“ポスト”)が年始にバズっていましたね。それは措くとして。
 全体的にふわふわとした、“雰囲気”で乗り切っている歌詞だなと感じます。夜空や星、それらをつなぐことが何のメタファとして機能しているのかを考えていきます。
 星はつながりあって星座を形成する。そのつながり合いと、人間同士の、つまりこの歌詞の中での”君”と“僕”との出会いやつながりになぞらえて称揚し、それが数百光年と遠く離れたベテルギウスに届くように祈る。その祈りはいつしかまた別の人たちへと届いていくだろう。そのような願いを読み取れる歌詞ですが、まあベテルギウスでなくてもいいんですよ、多分。

 そもそもなぜこの歌詞においてメインで扱う星をベテルギウスに定めたのか。まず考えられるのは、単純にベテルギウスが「明るく大きく一番見つけやすい」からでしょう。ベテルギウスの直径は764太陽半径……。まあとにかくでかいんですって。赤く輝いているため、一般的にイメージされる“星”とは少し違う特徴をもっています。また知名度も抜群で、小学校の理科では“冬の大三角”や“一等星”といったキーワードでこのベテルギウスが扱われます。冬に差し掛かる季節にリリースされた楽曲なので、オリオン座のベテルギウスはまさに夜空の主役となる頃です。
 ただ、ベテルギウスでなくてはならないという積極的な理由はこれ以上見つけにくいのではないか、という感覚があります。

 デネブも一等星で、なおかつ地球からはかなり遠く離れているということで、この楽曲のメッセージ的にはそっちが良いかもしれません。しかし、こちらは夏の大三角の一つなので季節がずれているし、遠い分暗いし、語感的にもベテルギウスに軍配が上がるので、採用されなかったのかなと考えても良いでしょう。これまた夏の星であるアルタイルとヴェガはそれぞれ彦星・織姫なので、また別の文脈が乗ってくる。
 同じ冬の大三角であるプロキオン、シリウスや、リゲル、プレアデス星団ならどうなんだろうと考えてみるますと……。この楽曲のメッセージに適した代役を探すとすれば、プレアデス星団でしょうか。寄り添い合う6つの星たちが、“肩並べ 手取り合って 進んでく”感じによく合います。“昴”という日本語名もいいじゃないですか。ベテルギウスの日本語名は“平家星”ですが、栄枯盛衰のイメージと強く結びついてしまいますし、ベテルギウスの語源は“巨人の腋の下”とする説もありますから。
 プロキオンもいいですね。何せプロキオンは一つの星に見えて実際はA/B二つの、色の異なる星が寄り添いあっているのですから。同じ冬の大三角の中でプロキオンを代役として起用してもいいでしょう。

 話が順調にわからなくなっていますが、ベテルギウスでなくてもいいんじゃないかということと、歌詞に込められたメッセージはなんとなくわかるんですが非常にふんわりとした印象しか残らないな、という点だけが実際に言いたかったことのような気がします。


 人気とされる曲の歌詞をいろいろ読んでみましたが、読めば読むほどに疲れるし空疎な感じが出てしまうのでもう勘弁してくださいという気持ちになってきました。
 ただ、人によって音楽や楽曲に求めるものは違ってきますし、当然上記の楽曲や歌詞が好きだという人もいる訳ですので、この記事はもう私の個人的な記録と記述として書き上がった(書き上がってしまった)のでWebの海に流しておきます。ふう。

『メリーゴーランド』 とにかく最低

 映画『かがみの孤城』の主題歌なのですが、物語(原作・映画)と歌詞の内容の乖離があまりにもひどいため、項目に起こさずこの位置に書いて“最低”とだけ。歌詞に主人公の名前入れときゃいいとか思ってんのか。
 あれだけ素晴らしい映画の、最大にして唯一の失点がまさかの主題歌だったとは、ねえ。