“人生全肯定”の潮流とそれに対する所感 優里『ビリミリオン』

 人気シンガーソングライター・優里の楽曲『ビリミリオン』を聴く機会がありました。端的に、率直に、「歌詞こっわ……。」と感じました。

 楽曲/歌唱/表現物において、人生と選択の無条件かつ全面的な肯定をこれ見よがしに提示するのは、どうしても虚無感が付きまとうという所感をもっています。そんなことをいちいち言わなくても、自分の人生と選択に無限の価値があるのはある意味当然のことです。人類が有史以来、血と鉄と火薬を乗り越えて築き上げてきた人権に依拠するものであるからです。ただ、このことを明確に示さなくてはならない状況/時代の要請があるのかなという予感めいたものがあるので、一度措くとして。本楽曲が抱えるメッセージについてここで考えていこうと思います。

 この楽曲が放つメッセージの最大の肝は、「100億円と、自分の人生/選択(=可能性)の釣り合わなさ」なのですが、そういった対立軸の立て方自体が非常に陳腐で安っぽくて直截的に過ぎるため、寓話としても喩え話としても陳腐で安っぽくて直截的に思えてしまいます。煎じ詰めていけば、「人生金じゃないよね、愛(もしくはそれに準じる何か)だよね」という使い古された文句が、結局ここでも出てくるわけであって、メッセージとして新規性があるかと言われると、私の中で大きな疑問符が鎌首をもたげてくるのです。
 青年が老人にそのような取引を持ちかけられるという「寓話性」や「ファンタジーっぽさ」によって楽曲の色をより鮮明に輝かせようとする意図があるのかもしれませんが、数字によるあけすけな喩え話になっていることで、メッセージが希釈されてしまっている印象を受けます。君の寿命1年に対して1億円、足らないと言うならさらに倍の2億円でどうだ、というわかりやすい価値変換に対して、そもそも寿命/人生/選択が、金銭的価値と同じフィールドで語られています。ここに無茶苦茶さを感じてしまいますし、空疎な印象をもってしまうことを禁じ得ないのです。

 もう一つの恐ろしさとしてあるのが、金銭を提示されて人生を売り渡すことが、たとえ「安い売値」であったとしても、人はそれを選択してしまえる、ということです。
 自分の人生や選択に絶望を抱く人であれば、たとえ端金であったとしても当座をしのげるような金額で売っちゃうんじゃあないかな、と思うわけです。そういった自暴自棄な選択を想起してしまうくらいには、『ビリミリオン』の歌詞は虚しい響きを有しています。人生と金銭の価値転倒はすでに現実のものとして起こっているわけですから。
 特殊詐欺の受け子などの“闇バイト”に代表されるように、目先の金銭を得ることが最優先事項になってしまい、それが犯罪行為/人生を破綻させる行為であることに考えが及ばない事例はいろいろ報告されています。『ビリミリオン』を、「目先の利益に引っ張られて、未来を棒に振る選択をしないで」というメッセージを包含する楽曲として捉えることは可能ですが、歌詞を読んでみれば楽曲のど真ん中に金銭が登場してしまっているので、正直どうしようもありません。楽曲として放射するメッセージはすでにここで破綻をきたしかねないのです。

 対して、老人の視点から考えたときにこそ、この楽曲のもつメッセージが強く打ち出されると考えることができます。
 「何億円支払うことになっても取り戻したい過去、やり直したい人生の道程があったとしても、それはきっと素気無く断られるでしょうね。他者の人生を買い取ることも、前途ある若者に自分の過去の夢を仮託することもできませんよ。」翻って「たとえあなたの余命が幾許かであっても、それでも人生を肯定していきましょうよ。」という、悲壮を含んだ決意に読み替えてしまってもいいでしょう。
 そのようなメッセージであれば楽曲としての説得力は充分に発揮されるのですが、そこまでのメッセージ性が含まれているようには読めないのが正直なところです。主眼はあくまで、無茶苦茶な取引を持ちかけられた若者の側にあると見るのが妥当です。
 老人側の視点を考えると、ここ最近の“転生もの”メディアの流行にも重なる話ではあるとみられるでしょう。そして、転生の可能性をぶった斬って捨てるあたりもまた現代的だなという所感をもちます。
 ただ、今をときめくシンガーソングライターである優里の楽曲のメインターゲット層を考えると、老人側の視点というのがどこまで重要な地位を占めているかは疑問で、単に「若者の可能性を買い叩こうとする愚かな人物」くらいのキャスティングにも思えてきます。

 現在のメディア環境にあって、曲と歌詞とMVは一体不可分のものとして語られています。その環境下で、鉄拳の手がけたパラパラマンガのMVは楽曲に歌詞がもつ以上のストーリー性を与え、楽曲自体を一つの完成品として1段階引き上げることに成功しています。素朴で優しく柔らかいタッチの絵で紡がれる物語と、寓話性、ファンタジーっぽさのある歌詞の雰囲気はよくマッチしていると思います。ですが、それだけの話です。あくまで歌詞の話をするのであれば。

 自分の人生や選択を全面的に無条件に、金銭的だったり物質的だったりする価値からは遠く離れた位置に対置して肯定し称揚するのは、現代においてはかなり難しい希望/願望になりつつあります。
 星の数、PV数、いいね数。グラデーションはかき消され、評価は全て数字に変換されています。モンハンのプレイ総時間が何かのステイタスのように語られたあたりから、数字に対する信仰が文化やメディアのあらゆる場面に侵食しているように思っていたのですが、とうとうここまできたのかな、と感じています。100億円。ビリオン。ミリオン。エトセトラ。結局、数字を提示する、あるいはその数字を唾棄することでしか人生を、選択を肯定できないようになっていくのかもしれません。人生の肯定は、その先にあるはずなのですが。

 これからもきっと、このような「人生を無条件に全肯定する表現作品」はどんどん増えていくのだろうなという予感があります。正直なところ、飽和状態です。
 「推し活」によって対象を全肯定するように、人々はきっと自分も全肯定してくれという心性で日々を過ごしているのでしょう。「推し」のためなら経済面での過度な負担も厭わない、という心性は、『ビリミリオン』と並べたときに奇妙で過酷でグロテスクな対比を打ち立てているようにも思います。
 ままならなさ、どうしようもなさを覆い隠して、ただ自分の人生と選択に肯定的で好意的なメッセージだけが発され続けるのはなんだかユートピア的な奇妙で微妙な光景に感じられます。そこに挟み込まれる“数字”あるいは“数字たち”。天使が算盤を弾きながら奏でる福音のつもりなのかもしれません。