小学4年国語『プラタナスの木』(光村図書)がひと段落

 勤務校の公開研究会では、昨年度に引き続き椎名誠の書き下ろし作品『プラタナスの木』を教材とした授業を公開しました。

 今年度は、人物相関図の作成を授業の中核に据え、登場人物同士の関係性の変化を、順を追って読み深めていけるようにしました。“人物”相関図とは言っていますが、実際には主人公である“マーちん”などの人物から“プラタナス公園”や“プラタナスの木”などの場所やモノに対して矢印が伸びたり、そこから矢印が人物に返っていったりするので、単に「相関図」と呼んだ方がいいかもしれません。
 教材文の記述を手がかりに登場人物同士、あるいは人と場所、人とモノとの間に引かれた矢印にどのような名称(興味、関心、憧れ、不安……といった感情がメイン)を付けていくかを児童と一緒に考えました。秋口に実施した『ごんぎつね』を教材とした授業でもこの相関図を用いており、その有効性を確立したいと考え、公開研究会で再登板です。

 国語の物語教材文を扱う授業で、相関図がどれだけ有効だったのか。私自身の見立てで行けば、有効性はあったと感じています。実際はどうなのでしょう。答え合わせはずっと先な気がしますし、ずっとされない可能性もあるわけですが。
 人物相関図を含む、相関図や関係を図示したものは、物語の中で流動的な関係や関係性を一括して視覚化・可視化することができますので、「なんとなく読んだ/読めた」で流されていくような物語の瞬間を一つずつ係留できます。そんなふうに波止場にずらっと並べたあのシーンこのシーンを眺めていると、なんだか物語を俯瞰的に全体的にいい感じに理解できた、読解できた、解釈できたような感覚になるでしょう。「へへえ、このお話ってこんな構造なのね、ふむふむ。」と。

 ただこれは、物語を読んで味わう営為において、無茶苦茶な危険性を孕んでいるとも言えます。ざっくり言うなら「なんかわかった気になった。」ということです。
 一時、教職員の研修会やセミナーで「ファシリテーション・グラフィック」や「グラフィック・レコーディング」が流行したことがありました。講話、対談、座談会、協議会の内容を、その流れに沿って、時にイラストや図を交えながらわかりやすくまとめていくこの「ファシグラ」や「グラレコ」は、一目見れば話/会の内容が網羅されてまとまっているわけですから、後から内容を思い出す際の一助として大いに役立ちました。話/会が終わってグラフィックが完成したら、各自のタブレット端末やスマホでそれをパシャリ。いい感じです。
 しかし、実際にグラフィックを書いた/描いた人と、それを見返す人との間のギャップが意識されない限りは、情報の欠落や伝達ミス、齟齬が発生してしまいます。意識されたとしても、完璧な再現は難しいのですが。あくまで“自分ではない他人が書いた/描いたもの”であることを念頭に置かなければならない、という条件付きのものです。

 そういうわけで、私が授業に持ち込んだこの“相関図”も、同様の課題を抱えています。登場人物と場所とモノ、それらの関係性はこのように変化していったのだ、ということを視覚的に一括して提示できるという点は強みですが、言い換えるなら関係性の表示“しか”できないものなのです。物語を読んで味わう、となったときに、激しく流転する物語という大きな流れを1枚の紙の中に押し込めることがどれほど必要なことだったのかは、よく分かりません。現時点で考えられうる最良の方策と信じてそういうことをしたわけですが、答え合わせはいつできるのか、それもやっぱり分かりません。

 小学校では、令和6年度からは改訂された教科書が使われます(教科書の改訂自体は定期的に行われています)。新しい教科書に引き続き掲載される物語があれば、新登場の物語も、お役御免となる物語もあります。教科書から退場していく物語であっても、等しく子どもたちの記憶に残ってほしいなと思います。
 物語を味わう、この尊い行為の一端として、相関図を整理することがあってもいいかな、と思っています。でもきっと、それ以外にもたくさんある“味わい方”を考えて、実践していかねばならないのだろうな、と思います。それは、物語の“記憶への残し方”でもあるのかなと思います。

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