“今日と同じような明日”に向けた祈り

 ですって。
 公立学校の現場は限界がきていますが、有効な対策がないまま2023年は終わろうとしています。これ系のニュースに対して現職の先生方はいろいろなことを言いますが、その言及の射程範囲は自分の学校を起点に、市区町村教委、都道府県教委、そして文科省、という一直線上に限定されていることがほとんどです。「校長教頭がもっと有効な策を考えてくれないと。」「教育委員会はもっと採用を増やしてよ。」「文科省は調査ばかりで何もしてくれていないのでは。」といったことが判で押したように繰り返されるわけですが、そもそもの射線が学校教育に隣接する諸々のエリアを無視して学校ー文科省の一本線で構成されているので、判で押すしかないのです。
 公立学校ですから、この手のニュースに対する射程範囲は、本来であれば射“線”というよりも同心円をイメージしたいところなのですが、そうなると言及すべきエリアは野放図に広がっていき、収拾がつかない状態になってしまいます。家庭、地域などのプライベートな部分にまで踏み込まねばならなくなるので、やはり難しいのかなと思います。
 この問題を考える上ではどうしても学校以外のエリア、要は家庭や地域社会についても同時並行で考えていく必要があるのです。しかし、安定した家庭、安定した地域社会、そういうものが大変に得難く希少な時代になっているのかなという肌感覚があります。ですので、もう学校ー文科省ラインという一本の線の上で、判で押したように何かを言うことしかできない(できないことにしておく)のです。

 ということで、結局、「自分の周囲の半径数メートル」の話になるわけです。自分自身の体と心を守りながら、職責を果たしていくためにどうするべきか。今や精神疾患のリスクは誰もが抱える課題です。もはや「今日と同じような明日」という言葉は、退屈で彩りのない、無味乾燥な人生を意味しません。自分の心身を守り、癒し、回復させるために、今日と同じような明日がまた来ることを祈る。「日々のルーティン」を確立させたがる人が多いのは、その祈りを儀式として定着させたいためなのかもしれません。
 昨日と同じことを今日も繰り返しました。だから明日も同じように繰り返されてください。これ以上心が乱されてしまうことを望みません。そういう祈り。

 ただ、学校教育現場は、今日と同じような明日が来ることが保障されていない場でもあります。日々、何かが起こり、何かが変わっていく。そういう場で、せめて何かが不変であってほしい。自分が不変のものとしてコントロールできるのは結局自分の行動くらいで、それを拠り所に、里程標にして日々を乗り切っていく。そのような生存戦略を、これからはとっていくことが主流になるのかもしれません。もうなっているかもしれません。

 繰り返しになりますが、精神疾患による休職や退職のリスクは、今や誰もが抱えるものになっています。「精神疾患による公立学校教員の休職が過去最多」というニュースは基本的には“自分自身”、要するに“あなた”のことであり、“わたし”のことです。6540人目の休職者は自分だったかもしれない、そういうニュースです。
 学校ー文科省ラインの上とか、学校を中心とする地域的同心円とか、まあどこでもいいんですけど、そこを射程に捉えてぐちゃぐちゃ言いたいんならずっと言ってりゃいいです。それはなんだか「自分は精神疾患で休むなんてことはないし、万一そうなったらそれは自治体や国のせいだし。」という態度に見えなくもないですけども。

 自分の生活、自分の人生。
 「自分の中の不変は何か」という問いを立てながら、「今日と同じようでちょっと違う明日」を祈りながら。