話して書いて授業して

 若い同僚と授業のことについて話した。研修部が行う来年度に向けての提案授業について。授業者は彼であり、随分と気合を入れて準備を進めている。年間で何本、こんなふうに気合を入れた授業をしているだろうか。そういう自分自身の話はさておいて。向こうは「先輩であるマエダ先生にいろいろ教えを請いたい、相談したい」という心持ちだったかもしれないが、私は私で「やっほう授業の話ができるぜ」くらいにしか思っていないので、やはり若い年代の先生と話すのは難しい。30代男性は猛省せよ、総括せよ。

 「書く」という営為には、目的(何のために書くのか)と相手(だれに向けて書くのか)の二つの意識を働かせる必要があるのだが、国語の授業で「書くこと」を扱う以上は「仮のもの」にしかならないのではないか、という危惧がずっとある。手紙にしても企画書にしてもこういったnote記事にしても、生活の中に入り込んでいる「実のもの」に転用あるいは適用可能なものとして磨き上げていくためには、授業で取り組んだ「仮のもの」の精度を上げていけばよいのか、あるいは「書く」行為そのものを磨き上げていけばよいのか。この辺りの話には、ずっと結論を出せずにいる。ただ一つ自分の中ではっきりしているのは、「書くこと」にある種の希望を見出せるようになってほしい、ということだけである。

 「書くこと」の授業の難しさは、また少しずつ質が変わってきたように思っている。かつての自分(といっても5、6年くらい前)は、「こんなこと書かせてこんな力をつけさせたい」という半ば呪いにも似たアレコレに縛られていた。その呪いから逃れた先にあったのは「子どもたちに書きたいと思わせるにはどうしたらよいか」という話で、それはとにかくでかい話だった。教育の根幹にある話にようやく辿り着いて、今こうしてウンウンと唸っている。ここからが難しいのであって……。

 子ども達にとって「表現すること」のハードルは徐々に上がってきているのではないか。子ども達を取り巻く環境の変化。求められていることへの適応は際限がなく、徐々に疲弊していく子ども達。「出る杭は打たれる」ではないが、自分の表現が世界に受け入れられるかどうかの不安を常に抱えているような状態はちょっと不健全であろうなと思う。
 まあ他にも考えることはたくさんあるけども。

 いつだったか、自分はポツリと「書くことはもっと自由であってほしい」とつぶやいたことがあったなあ、と思い出す。自由に書くために考えなくてはならないことは多いが、もっと自由であってほしいと願う。