あの夏を繰り返している

 読書感想文。奇妙で不思議で場合によっては忌々しくて,苦しくて苦い夏の思い出。風物詩としての側面を持ちつつ,時に義務教育の悪しき遺物として語られ,有り体に言えば厄介者扱いされる。だから代行業者なんかも湧いてくる。読書感想文を学校現場から無くすべきだという主張は毎年6月〜7月にかけてTwitterなどで散見される。もうこれ自体が風物詩である。
 働き方改革(という名の何らかのポーズ)(自治体主催の読書感想文コンクールの審査員は,公立学校の教諭が務める場合が多い)や,学習指導要領における読書と感想記述活動の学年段階的な整合性についてはひとまず傍において,やっぱり「読書によって本一冊を味わった過程もしくはその結果から受け取ったものを,言語化して記述していく営為の難しさ」についてはちゃんと考えなくてはならない。この仕事に就いている以上は,そしてアニメや漫画を見ては感想のようなものを書き散らしている身としては。

 「読書」「感想」文なので,読書と感想の両方が揃っている必要がある。「読書すること」と「感想をもつこと」は最初っからセットになってはくれない。どちらかが欠落しているケースは非常に多い,というのが私の直感だ。
 分かりやすいのは「あらすじや概要を書いて終わる読書感想文」で,内容理解は概ねできているが感想が持てていないパターンになる。字を,言葉を,文と文章を理解してはいるが,それ以上の段階には進んでいない状態であり,対象と自分とが離れている状態とも言える。
 「楽しかったです」「とにかくすごかった」「エモい」「尊い」「無理」とかは感想かと言われると,まあもうちょっと語を尽くしてくんないかな,と思う。具体的にどの部分がエモかったか,と突っ込むとある程度深度が出てくるんだけど「いやもうとにかく全部だよ全編通してだよ」とかになる場合もあるので,これは読書できているかというと,私ならできてない部類に入れてしまう。読者としての解像能が高まっていない状態と言うこともできるだろう。

 そういうわけで①ある程度の距離まで対象に接近し,そこから②解像能を高めた自分のフィルターによって対象を捉え「直す」という複数の段階が要求されることになる。
 私なんかはいろいろと賢くやれないので,①については「対象を複数回見返して見直して接近する」という方略を採り,②については「自分の持っている知識や経験に無理やり結びつける」という力技に頼ることが多い。で,そういう複数段階を踏みながら,時には最初の段階に戻りながら,対象への接近と捉え直しを繰り返して,ようやく感想というものができあがる。

※これまで挙げたアニメの感想についても,最低2回は全話見直しており『スタァライト』に至っては3周している。1周目で書けないのホンマどないやねん。

 思い返せば「読書感想文を書きましょう。本を読んで面白いと思ったこと,すごいなと思ったことを作文用紙に書くんですよ」くらいの指導を受けてきた記憶しかない。そんなんで書けたら苦労はしないよ,と思うのだけど,ここ数年でだいぶ様相は変わってきている。小学校の夏休み用ドリルを販売する教材会社の中には「読書感想文の書き方」と題する非常に丁寧で分かりやすいプリントやワークシートをつけているところもある。ありがたいことだなあと思う。
 ただ,そのハウツーだけでは書けないのも読書感想文の難しいところで。先に述べた通り,私たちは対象に接近しなくてはならないのだ。接近したいと強く願うような対象に出会うことが必要になってくるし,更にそれを捉え直さなくてはならない。捉え直しの中で,自分のあれこれを思い返す。場合によっては自分の世界を拡張する。そういった一筋縄ではいかないような旅程を要求される。難しいね。感想を書くというのは。それでも,書くことが救済である私にとっては,明日も「書く何か」を探すんだろうな,と思っている。

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