「育ち直し」の長い道のり

 ここ最近は、「育ち直し」という言葉を使っていろいろ説明したり話したりしている。

 年齢相応の振る舞いや発達の段階に見合った言動、といったものがなかなか難しいあの子。発達障害に分類される場合ももちろんあるのだが、それ以上に「育ち直し」のパターンが多くあるんじゃないのか、というのがここ最近の所感である。

 自己中心的な言動が目立つ。ものを大切にできない。集中力が持続せず、興味関心がすぐに別のものに移る。
 これら全てを「発達障害」の箱の中に入れるのは簡単だし、なんならそういうことをいろいろしてきたんだろうな我々は、と思うのだけど、ことはそう簡単で単純で明快ではない。世界は常に複合的で重層的でグラデーションである。
 似たような話に「愛着形成に問題を抱えている」というフレーズがあるのだけど、これだって大きな箱の一つでしかない。「あの子、何か抱えているよね」というケースを、我々は「発達障害」とか「愛着」とかの大きな箱に放り込み過ぎてはいないか。

 そういうわけで、この箱の中をもう一度覗き込んでみて、どんな構造になっているのかな、と考えてみて、「育ち直し」という言葉に行き着いた。
 自己中心的な言動が目立つのは、自己中心的に振る舞うことをしてこなかったから。ものを大切にしないのは、ものを壊してしまった時の深い悲しみを経験していないから。興味関心がコロコロと変わるのは、自分の興味関心を見つけられていないから。
 子どもは、自己中心的な言動を繰り返していく中で、「どうやらこの世界には、『自分』と『自分以外』の存在があって、『自分以外』の存在は、『自分』の言動によって怒ったり泣いたり笑ったりするらしいぞ」という実感を獲得していくものである。しかし、その実感を得る経験が欠落していたり剥奪されたりしていた場合、それを取り戻すのには膨大な時間がかかる。
 ものを大切にしないと壊れるのだが、そういった実感に乏しいあの子。なぜそういった実感に乏しいのかといえば、それは自分自身が壊れるような扱いを受けてきたからに他ならず、「この世にあるものは全て粗雑に扱ってしまって構わないし、壊れてしまっても別にいいのだ」という意識を着実に育ててしまっている。うんと愛されて大切にされてきた経験の欠如は、そのまま世界に反射していく。
 興味関心が目まぐるしく変わり、恐ろしいほどの頻度で次から次へと手に取る。手を出す。あの子が興味関心を見つけられないのは、興味関心を示した瞬間にそれを潰されてきたからである。「触っちゃダメ」「口に入れちゃダメ」「見ちゃダメ」の行き着く先は「感じちゃダメ」である。「感じちゃダメ」の行き着く先は、生きる意味の喪失。

 数多ある問題行動、望ましくない振る舞いの中の何割かは「育ち直し」なんじゃないのか、というのがここ最近の所感である。「育ち直し」の真っ只中に居る彼ら、彼女らは、必死に「あの頃」を取り戻そうとしている。自己の確立、心から大切にしたいと思うものとの出会い。
 学級経営の充実と、学校を安心安全な場として機能させていく必要性が叫ばれている。それは、学校が少しずつ、「育ち直し」を安全に遂行する場になっていくのかもしれない、という予兆なのだろう。