夏休み2024を振り返りながら

 仕事のことを考え始めています。というのも、週が明ければ、具体的には8月19日から授業が始まるからです。盆を過ぎた北海道は例年であれば予告なしに秋に突入するので、それくらいから授業が始まっても問題はないわけです。まあ、昨年は8月下旬に猛暑日による2日連続臨時休校があったりもしましたが、今年度の北見市は小中学校にエアコンがあるので大丈夫でしょう。市財政はヤバめですが。

 主体性信仰、あるいは「自分ごと」信仰、をぼんやり考えています。
 「自分ごと」という言葉。「他人事」「ひとごと」の対義語として、あるいは教室や授業内で主体性が発揮されている、湧き上がっている状態を志向するためのキーワードとして、学校教育業界内では結構なパワーを持っている言葉です。
 「自分ごと」がパワーをもつ背景に「教室」や「学校」を設定してもいいのですが、ここはいっちょ「社会」を想定してみましょう。「他人事社会」。
 社会全体が他人事の雰囲気に支配されていたらば相当に大変なことになるでしょう、というのはかなり致命的な誤解で、少なくとも私はかなり他人事なスタンスのままで社会を生きています。皆さんも多分きっとそう。どんなもの、どんなこと、どんな人にも“自分の入り込む間隙”を見出してしまっていてはなかなかしんどいのではないだろうか、という危惧があります。

 というか、他人事にしてしまった方が社会のシステムは円滑に動くのであって、それは有史以来の大発明“分業”によって成し遂げられている、はずなのです。
 しかしながら、この分業化された諸々に対して、私たちは常々高度なオペレーションを要求しています。コンビニ店員のタスクの多さや煩雑さを話題に出さずとも、他人/業に対する要求度は年々高まっており、その要求に、経験値と経験則や、ICTやAIなんかの技術は結構ちゃんと応えて“しまって”います。分割/分配されたタスクは、各々ですくすくと育って肥大化していっているのでしょう。

 なんだか主体性とか「自分ごと」がどうこう、の話から遠く離れてしまったような気もしますね。ただ、何もかもを「自分ごと」として包摂するような生き方はすでに破綻をきたす確率が高くなっており、そんな状況下で主体性だの「自分ごと」だのを金科玉条として扱うのはもう無理があるんだろうなという気がします。
 全てのことにコミットし続ける、あるいは「自分ごと」として深くコミットしていくことの危うさがそこにあるように思います。自己と他者の境界線は非常に(それもひどく冷酷なあり方で)明確になったとも言えるし、不明確で頼りない輪郭だけになってしまっているとも言えます。
 そういう状況を(自分で勝手に)想定して、さて。8月19日から、学校教育の立場からどういうことをしていこうか、ということを考えています。