“国語力”議論の空疎 『映画を早送りで観る人たち』

 稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(2022年・光文社新書)
 昨年話題になった本書は、「映像作品を早送りしたり10秒スキップで見るとは嘆かわしい」みたいな話ではないですし、単純な世代間論争や特定世代への印象批判でもありません。その発生機序や背景に焦点し、今後のメディア論展望の見通しをもたせるような内容であると読みました。
 そして、この話題は世代的な話というよりも、時代的、社会的な話になりますから、当然学校教育も射程内に入る、という所感をもっています。

 映像作品に限らず、”コンテンツ”を”消費する”行為は全世代的であり全世界的ですらあるのだろうと思います。その中で特に、日本の若者世代は、可処分時間が限られ、「こうありたい」よりも「こうあるべきだ」が優先されてしまう状況に置かれており、それが映像作品の倍速視聴、10秒スキップ、ネタバレを厭わない、傷つきたくない視聴スタイルを作り上げています。
 つまり彼ら/彼女らは、映像作品、フィクションを味わうための”体力”をゴリゴリと削られている現状にあるのでしょう。一つの作品について考えを巡らせる時間、お金、精神的な余裕、それらを統合した「作品を味わい尽くす体力」。「この作者の他の作品は……」「このジャンルの有名作は……」そうやって食指を伸ばしていくことも、「このシーンってアレじゃん」という作品同士の繋がりを見つけるひらめきにも似た感覚も、この”体力”なしに発生させることはできません。だから「これだけは見ておいた方がいいList」を求めてしまうのでしょう。

 翻って学校教育における物語やフィクションとの関わり方はどうでしょうか。
 「『ごんぎつね』、こんな短い時数でやんの? え、中学校はもっと短いの?」「昔はもっと時数あったよね。」「というか物語の単元自体減ってない?」「昔は1回の授業で1行とかそういうこともやってたって聞いたことあるよ。」「次の教科書で作品が変わるんでしょ? またイチから教材研究かあ……。」という会話はきっと全国の学校現場で聞かれることでしょう。実際に私も口にしたことがあります。物語の授業についてのノスタルジーが感じられる光景です。
 物語が教科書において占める面積と時間の割合は徐々に少なくなってきています。「1年を振り返って、思い出を書いて文集にしましょう」「友だちと学級の課題について話し合いましょう」「地域の交通安全を支える人にインタビューをしましょう」。話す・聞く、書く活動の比率は高まってきていますし、それは社会から要請された動きでもあります。時代はコミュニケーション能力だ、と。
 かつて、国語科における名人教師は、特に物語の授業に絶対的なこだわりと力量をもっていました。『ごんぎつね』の、『大造じいさんとがん』の、『海の命』の、『きつねのまど』の、一言一句に宿る魂を拾い上げ、行間に落ちた宝石を見つけ出し、子どもたちと共に目を輝かせながら読み進めていた……とまでは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも私はそういうイメージをもっていますし、もしできるなら、そんな授業をしてみたいとさえ思っています。ただ、国語科カリキュラムの大きな変化に加えて、そういったいわば”カリスマ国語教師”の存在感は徐々に薄まりつつあるのが現状です。国語の物語の授業は文字通りの伝説になりつつあり、その復権は儚い夢のようにさえ感じられます。一本の物語を味わい尽くしたという経験は喪失し、「このお話、まだ噛んでも味がする!」という衝撃にもなかなか出会えないようになるのかな、と思います。

 フィクションを味わい尽くすための体力を削られ、その結果として、あるいは解決策として登場し、選択されたのがサブスク・配信、倍速視聴、10秒スキップ、ネタバレ・考察サイト、リスト化を求める視聴者層、そして精神安定の手段としての”推し活”なのです。
 映画は早送り、本は読まない、というより読めない。こういったことをあげつらいながらネット上で散々擦られている”国語力議論”。ただ、もはやこのことは国語という枠内で語れるほど矮小化された内容ではない、ということになります。
 じゃあ、学校で、教室で、何ができるのでしょうか。『ごんぎつね』が国語の教科書から消える日は、そのうちやってくるのかもしれません。