教材研究覚書『鳥獣戯画を読む』(光村・小6国語)

 高畑勲による鳥獣戯画の“批評文”です。
 「説明文」という呼称でもいいのかもしれませんが、高学年ともなると説明文らしき説明文は姿を消し、随筆や評論などが中心的に扱われるようになります。テーマも、哲学、社会学、心理学……いろいろです。
 まあ、“説明文”というのも、物語/文学的文章に分類されない文章たちの中核的イメージを言い表しただけでしかないのではないかという思いがあるわけですが。

 日本で最も有名な“絵”巻物と言って過言でないこの鳥獣戯画を、果たして“読む”とはどういうことなのか。そういったことに迫るような授業ができたらいいなと思っています。
 タイミングよく札幌で鳥獣戯画展があったわけですが、諸々の事情により札幌遠征は見合わせていた時期でした。授業をする立場として、実物をこの目で見ておきたい思いはあったのですが、まあこればっかりはどうしようもありません。面白そうな展示や展覧会、企画展はだいたいが札幌(よくて旭川、函館)でしか行われないという悲しい北海道民の宿命があります(ガンダム展、博報堂エヴァンゲリオン展は網走でやったことある)。

 この『鳥獣戯画を読む』を批評文とするその理由は、筆者の高畑勲氏が「鳥獣戯画こそは、我が国における漫画の祖、アニメの祖であるから」と力強く主張しているからに他なりません。
 氏の本業でもあるアニメーションの源流は、平安時代に描かれたこの絵巻物の中にある。この主張が、『鳥獣戯画を読む』の批評文としての立ち位置を決定づけているのです。

 “紹介文”よりかは“推薦文”に近いのだけど、「面白いでしょう。ぜひ実物を間近で見てみたいですよね。」と語りかけることに主眼は置かれていません。鑑賞体験を“報告する文章”という訳でもありません。あくまで、筆者が「鳥獣戯画」をどのような視点から、どのように“読み”解いたのかを綴るのがこの文章です。
 要するに、筆者の主張/考え/意図が全面に押し出された文章であることを前提として読んでいかなくてはなりません。そういうわけで「『鳥獣戯画』って素晴らしいんやね。」ではダメだし、「高畑さんは『鳥獣戯画』を見てほしいんやな。」でもダメで、目指したいのは「そうだね、確かにこの視点から見れば『鳥獣戯画』は漫画の祖でありアニメの祖だ。」「動かない白黒の絵がアニメの祖である、というのはどうなんだろう。そもそも“アニメーション”というのは……。」といった対象とその文章に対する厳しい評価なのではないかと思う訳です。

 小学校6年生段階で想定される到達点は、この“批評文”を足がかりとして、対象をどの地点からどの角度で見つめるか、そしてその地点と角度の妥当性の検討までを含むエリアにあるのではないでしょうか。
 そして、そのことが生活を含む様々な場面に波及していくことこそを、私たちが目指していくことを求められているのではないでしょうか。「1ヶ月に1冊も本を読まない6割の人々」という報道を横目に、そんなことを考えています。