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なぜ書を書くのか?

書家の前田鎌利です。
大きなテーマを掲げて今回お伝えしたいのが、書家としてなぜ書を書くのか?という本質的なことです。

一部はこちらの拙著「教養としての書道」(自由国民社)にも書かせていただいておりますが、書籍では紙面の都合上お伝えできなかったことを書きたいと思います。

書家は何を書いているのか?

そもそも書家である私は作品に何を書いているのかからお伝えしたいと思います。

書いているのは「文字」です。

書は文字を書く芸術です。(文字を書かない方もお見えになりますが。)
その文字は、日本語でも英語でもなんでも良いのですが、文字を書くことを私としては前提としています。
ここで大事なのはどの言語をチョイスするかよりも

なぜその文字を、その言葉を書きたいのか?

ということです。
ただなんとなく書きたいからその文字を書いたのでは、そこに書家としての存在価値がなくなってしまうと私は考えます。

なぜその文字を、言葉を選ぶことが重要なのでしょうか?
その答えは、

文字には念い(おもい)が込められるから

です。

念い(おもい)とはなんだ?

「念」の揮毫

「おもい」を変換すると以下の文字が出てきます。

思い
想い
念い

これらはそれぞれ意味が異なります。

思い・・・田の部分は脳を表しています。従って頭と心で考えるという意味です。
想い・・・相手を見た時に心に浮かんでくる感情を表しています。
念い・・・今と心から成り立っていますが、今の上の部分は人がまえといって、蓋を表しています。蓋をするくらいの自分の中にある強い気持ちを表しています。

つまり、自分の中にある念い=強い気持ちを書というツールを使って表現しているのです。
従って、書には念い=強い気持ち=メッセージが込められている必要があるのです。
その強い気持ちをどのように伝えるのかでそれぞれ書家の作品の違い=書風が出てきます。
では、そもそもなぜ念いを伝えたいのでしょうか?

なぜ念いを伝えたいのか?

私には念いを伝えたい理由が大きく2つあります。
1つは生い立ちに起因する部分。
もう一つは生きることに起因する部分です。

生い立ちに起因する部分は拙著「教養としての書道」(自由国民社)をご一読いただければと思います。


また、こちらのNewSchoolの密着取材(15分〜)でもお話をしていますので、よかったら見ていただけると嬉しい限りです。

Newschool

私は1歳の時に父親が他界してしまい、亡くなった父方の祖父母に引き取られて育てられていきました。
祖父母は文盲(文字の読み書きができない)であったため、若い頃とても苦労したと話してくれてそれに端を発して書道塾に5歳より通うようになりました。
そんな祖父母の念いを聞いて書に対する向き合い方が変わったのが12歳の頃。
それまでは出生の話をまともにしてもらっていなかったので意識をしていませんでしたが、12歳の夏ごろから私の中で書に対する心構えが変わっていきました。

今回は書籍では書いていないもう一つの生きることに起因する部分について話を展開していきます。

書くことは生きるということ

日々、私たちは生きています。
命が果てるその日まで、日々丁寧に、時にはアグレッシブに、時には怠惰に。

誰しもが考えることの一つに

『自分はなぜ生まれてきたのだろう?』

という素朴な疑問があります。
人生を通してその答えを探すような一面もあると思いますが、答えはあるようで無いものなのかも知れません。
運よくそれを見つけられれば、個人的には見つけるというよりも「そうである」と自分自身が認識したり納得したり、場合によっては錯覚することができれば幸せなのかも知れません。

私たち人間は、この世に生を受けた以上、何かしらの存在意義があるのでは?と考えたくなりますし、意義があると思うことで自己肯定感が上がります。
自己肯定感が上がるとポジティブに世界をとらえることが可能となります。

そうはいっても人類が誕生した700万年前に遡れば、現代の我々が考えるように、この世に生を受けた意義を自分に問うことはなく、おそらく動物的な本能の部分で生きていたのではないかと考えられます。
現代の人類は、それぞれの環境や立場で生まれてきた意義を見出し、納得して日々生きているわけです。

では、私にとって生まれてきた意義とは何なのでしょうか?
そんなことは生まれてきたその日から決められていたものではなく、ここまで生きてきた経験や経緯によって生まれてきた意義を形成しています。
つまり、生まれてきた意義とは生きている意義であるとも言えます。

生まれてきた意義=生きている意義

書家 前田鎌利の生きている意義とは、
自分自身が伝えたい念いを書というツールを使って伝えること
そのものです。

では、なぜ書で伝えることがやりたいことになったのでしょうか?

なぜ念いを書で伝えるのか?

あいたくて(2020年)

それは、自分自身が感動したいからです。
ここでいう感動とは感情が動くことです。
クラっときたり、ドキッとしたり、ハッとしたり、ホッとしたり・・・。

私は自分が書いた作品で感動したいと常日頃思っています。
それは自分の感情が動くことで自分が生きていることを実感でき、それを書というツールを使ってアウトプットすることによってその行為やその作品によってまた感情が動くからです。

感情が動くこともなくただ、朝起きてご飯を食べて、働いて眠るだけの日々は人としての営みというよりも人という器を使って生きることをこなしているに過ぎないのです。
生きていることを実感するのにまずは自分の感情が何によって動くのかを起点にして内観してみると多くの気づきや驚きがあります。

朝日を見て心が洗われたり、スッキリしたり、誰かに感謝してみたり、
映画を見て涙が溢れてきたり、手紙を読んで返事を書きたくなったり、
ふとした拍子にしばらく会っていない人のことを思い出したり・・・。

日常の中に感動することは多分にあるのですが、それぞれをきちんと認識して受け止めることが私にとっての生きていることを実感する一つの行為なのです。
慌ただしさに忙殺されているとそれらを受信することすら忘れてしまいます。
そしてそこに芽生える念いを書というツールを使って表現することでその感動を増幅させていくのです。
増幅させて形となって現れた書がさらに私自身を感動をさせてくれることになるのです。

文字自体は書でなくともタイプしたものであればその意味を理解するということは容易かも知れません。ですが、書で表現することによってそこに感情を動かす増幅機能が備わってくるのです。

利己的な書→利他的な書

一日一書

自分が伝えたい念いとはあくまで利己的な行動ともいえます。ところがここで不思議な現象が生じてくるのです。
利己的に制作したはず(自分の感情が動いた事柄から主観的に選んだ文字や言葉)の書が、結果的に誰かのために書かれた利他的な意味合いが生じているという点です。
つまり、自分の為に行なっている書を書くという行為が誰かの為になっているという予想外の現象が起こっているのです。

私は一日一書というワークを行なっていますがその作品をSNSでアップすると色々な方からダイレクトにメッセージをいただきます。

「今回の作品、今の私に刺さりました。」
「これから新たに歩んでいく上でこの書が背中を押してくれました。」
「どうしても自分の身近なところにこの書を置いておきたいのですが。」

こんなメッセージをいただいて作品がそれぞれの元へと旅立っていきます。

私はこれを「思いがけずの利他」と呼んでいます。

誰かの為に書こうと思って書いたわけでは無いものであるにも関わらず、誰かの為になっている。
この外からやってくる「思いがけずの利他」は「未知の利他」であり「想定していない利他」です。

ここでもう一つ疑問に思うのが、そもそも私が感動していることは本当に利己的なのか?という視点です。

感情が動くことそれ自体が利他的なものであるという可能性

街何回何回何回未来創@シンガポール(2023)

私の尊敬する東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授の中島岳志さんが著書の中で同様のことを書かれていました。
彼はヒンディー語を学んだ時に「与格」というものが存在ことを知ります。
与格」とは私たちが日常生活においてよく使用する「主格」(私は〜)と違い(私に〜)という構文です。
文法書によると、自分の意思や力が及ばない現象については「与格」を使って表現するのだそうです。

主格構文であれば「私はうれしい。」
ですが、与格構文ですと「私にうれしさが訪れた。
となるそうです。

確かに、うれしくしようと無理やりなるものではなく、自然とうれしくて思わず笑顔になったり、恥ずかしい時には自然と顔が真っ赤になったりする行為は感情が動いている事象として発生していますが意図して行なっているわけでなく自然に行われてしまっているものなわけです。
この「与格」という概念は私にとってもしっくりくるものでした。
そして中島氏はこの「与格」に利他の構造を見ています。
利他とは意図して発生するものではなく自然とそうなってしまう行為が利他であるというのです。誰かの為にやるということではなく、自然と利他が介在している。
そして利他は与えた時に発生するのではなく受け取った時に発動するとも説かれています。

まさにその通りです。

私が生きていることを実感する感動は私にその感情が訪れていることで感動しているとも言えます。
つまり、私の感情が動かされたのは私にその感情が訪れたことを私が受け取った瞬間に私の中に介在し、その感情を今度は利己的に表現し、さらにその表現を見た誰かの感情が動いて(受け取って)利他性が発生したわけです。

書から伝わる「思いがけずの利他」がもたらすもの

「思いがけずの利他」によって私の感動が誰かに伝わる(受信される)時に発生するのは「共感」という情動です。
共感とは感情を共有するという意味合いですから、私に起きた感動を伝えることによって共感という情動に繋がりそこから受信した方の行動変容へとつながっていきます。

一歩踏み出すことにしてみたり、元気になったり、チャレンジしたり、優しくなれたり。

そもそも私自身が誰かの感情を動かそうと思って書の作品を書いてもそんなことは確約などされることでもなく、誰かの為にという「押し売りの利他心」で書を書いたらそれこそ興醒めです。
結果的に「思いがけずの利他」としてその人に訪れたことによって行動変容へと繋がりその人の行動によってその人自身の未来が創られていくわけです。

そして、この共感という情動強烈な情動体験であればあるほど記憶に残ります。さらにそれを繰り返すことによって強まっていきます

この強烈な情動体験は書の作品を見ただけでは情報量が足りないため強烈なものにはなり得ないのではないかと考えています。
だからこそ、私が取り組んでいるのが書のパフォーマンスなのです。

書のパフォーマンスを行う意味

ブラジル リオデジャネイロでのパフォーマンス(2023)

「書の作品」を1.0だとすると、「書の作品+解説」によって2.0となり書の作品から感じるだけでなく書家の意図がそこに情報として加わることによって共感度が増幅します。さらに「書のパフォーマンス+解説+書の作品」になると3.0となり強烈な情動体験へと進化するのです。
これが動画になりアーカイブとして見る場合はリアルタイム性や臨場感、一体感が欠落するため情動体験は2.5へと減衰します。ただし、この2.5のアーカイブは解説と同様にその書家の作品制作における周辺情報として鑑賞者にさまざまな作品の周辺を想像することを容易にさせることに繋がります。第三者の自走力を養う上ではこれも増幅装置として機能する上で重要な要素となるわけです。

共感情動
1.0 書の作品<2.0 書の作品+解説<2.5 書のパフォーマンス動画<3.0 書のリアルタイムライブパフォーマンス

さて、今一度なぜ書を書くのか?について立ち戻ってみましょう。

私にとっての書を書く理由としては、生きていることを実感する行為として自分の感情が動いた(受信した)ことに端を発し、それを書というツールを使ってアウトプットすることでした。さらにそこからその書を通して第三者が共感情動体験をすることによって行動変容にまでつながっていく一連の事象が発生していることを見てきました。
ここでもう一つ押さえておきたいのがこの時代に生まれて生きていることを共感する時代の同一性です。

今、私たちは火星に移住することはできません。ですが、テクノロジーの進展と人類のチャレンジ精神と一部のクレイジーな起業家たちによってそれほど遠くない未来には火星に移住できると言われています。
先日も小学校で講演をした際に子どもたちの夢を聞くと「火星に住む」と真面目に答えてくれた子がいました。
そうか、そんな時代なんだなとしみじみ感じたものです。
同じような話でリニアモーターカーもそう。2027年に東京ー名古屋を開通させる予定でJR東海が計画を立てましたが、開業は遅れそうです。そうはいっても私が生きている間にリニアモーターカーで名古屋に移動することはできるかもしれません。
つまり、火星移住もリニアモーターカーも実現していない未来だけれども、実現可能性が高いため、話をしていてもその内容に現実味を帯びて、「移住してみたい」「乗ってみたい」と共感することが可能なわけです。

ここで気づくわけですが、私たちには同じ時代を生きていることによる共感度合いの高さというものが存在しています。
江戸時代の人々からすれば現代は想像すらできない未来であったかもしれません。当然、今とは環境が異なるわけですから時代が異なるために共感できる部分に乖離があるのも否めません。
火星の存在すら一般の庶民は江戸時代には知る由もなかったかもしれません。火星への移住の話など話題に上ることすらなかったでしょう。リニアモーターカーも然り。
この時代のギャップがない同一時代であることは共感情動が強くなると私は考えています。

また、別の観点では私が念いを発信して、受信をして行動変容につながることは普遍的なものとして時代を超えて存在することもあり得るかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザを見てそれを受信して画家を志して行動変容することがあるように、時代を超えて、時間を超えて受信することが起こりうる世界もあるからです。
もちろんダ・ヴィンチは未来の人類の行動変容になることを期待してモナリザを描いたわけではなく、描きたいから描いた作品であったはずです。そして、その時代背景やモナリザが纏っている服や時代における価値観からそれが素晴らしいものであると共感の度合いが強いのは現代の様々なバイアスのかかった手垢まみれの情報を纏っている私たちの目で見るよりも、もっとストレートに受け取ることができたのは当時の方々だったのではないでしょうか?

そして、この同一時代であるからこそ、リアルタイムで第三者の声が届き、「思いがけずの利他」によって私が生きていることのモチベーションや自己肯定感の向上と維持につながっていることを私は否定しません。

AI時代の書を書くということ

さらにもう一つ、私が書を書くことの意義として触れておきたいのがAIの誕生です。
生成系AIの誕生によってアート作品を制作することが容易になってきました。
書道の作品も近い将来には〇〇風の作品といくつかの要素を入力すれば、そのプロンプトから予測して作成されることになると思います。
王羲之の書のデータを入力して王羲之が描いたことのない文字や文章を書で表現するということは可能になるでしょう。
では、書の作品を生み出す書家は全てその行為をAIに委ねることになってしまうのでしょうか?

東京大学大学院工学系研究科人工物工学研究センター/技術経営戦略学専攻 教授の松尾豊さんは「フロンティア AI 究極の知能への挑戦」(NHK)のなかで知能について、「知能とはほぼイコール予測能力である」と定義されています。ChatoGPTにおいて知能が高いと言われるのは、次に出てくる言葉の予測精度が高いということであると述べていました。

これからAI(Artificial Intelligence:人工知能)の時代からさらにAGI(Artificial General Intelligence:汎用人工知能)の時代へと進化していく中でこの予測精度がさらに高まっていくとどうなるのでしょうか?
私はAGIが人間と同じように感情が動くことが可能になるのではないかと考えています。
AGIが事象を受信することで人がどのような情動になるかを予測することができるようになれば、現在できているAIによるアウトプットで第三者がそのアウトプットを受信して感動することは容易に想像できるわけです。
つまり、AI書家が出てくるのはそう遠くない未来であるということです。

アメリカの人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル博士によって2005年に著書「The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology」で提唱された2045年に訪れる「シンギュラリティ」(AIが人間を超える知能を持つ転換期)。その頃にはAI書家によって感動を享受する世界になっているかもしれません。

では、そんな未来に向かっている中で私が書を書くことの意義とは何なのか?

イギリスの登山家であるジョージ・ハーバート・リー・マロリー(1886~1924)は、生前に「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから(Because it's there.)」と答えたという逸話は有名です(日本語では、しばしば「そこに山があるから」と誤訳されてます)。

身も蓋もないかもしれませんがマロリーと同じく私にとって書を書くことは「私に書きたいことが訪れたから」としか言いようがないのです。

つまり、AI書家は書を書きなさいという指示(プロンプト)がなければ書き出せないのに対して(未来のAGI書家もこの情報を受信して書を書きなさいという指示を受けて書き出すことを前提とします)、「私に書きたいことが訪れたから私自身の意思ではどうしようもないから書いてしまう」というようにはならないのではないかと思います。

あなたは何を受信するのか?

いかがでしたでしょうか?なぜ書を書くのか?という問いに対してつらつらと、そして長々と書いてきましたが、この文章も自分の中の概念を言語化するという利己的な行動に過ぎないのですが、誰かの目に触れることによって、第三者が受信することでその方の行動変容につながるかもしれないという不思議なものです。

もちろん、そんなことを意図しているわけでもなく、それによって対価を得ようと思ってやっているわけでもないのですが。
ただ、この2024年の年初において自分の念いを表出させることは未来の自分へのメッセージでもあったりします。
2024年1月7日現在は令和6年能登半島地震が発生して間もない中で、ニュースを見てもできることが限られている私にとっては気持ちが滅入っていく日々となっています。
そんな中で、改めて書籍を出版してから書と自分自身、書家としての自分の思考を言語化することで自分と向き合い心の整理をしています。
日本は世界のマグニチュード6.0以上の地震の2割が発生しているとされる地震多発国です。地震が発生し、死に至るリスクは日本においてどの地域にいても起こりうることです。
私にできることの一つとして今回は「なぜ書を書くのか?」について言語化を試みてみました。
おそらく、この先起こる事象によって、この書を書く理由はまた流転していくことになると思います。
理由は変化したり増えたりしても、書を書く行為はなくすことができないと考えています。これからも私の念いを伝えるためのツールであることに終生変わることはないでしょう。

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前田鎌利(MAEDA KAMARI)
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