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最長片道切符で行く迂路迂路西遊記 第27日目

前回のお話は以下URLから。


第27日目(2007年9月3日)

(博多ー)桂川ー原田ー鳥栖ー佐賀ー肥前山口ー早岐(ー佐世保ー)早岐ー諫早(ー南島原ー愛野ー加津佐ー小浜)

9月3日の行程

27.1 篠栗線

 ホテルを6時過ぎに出て、すぐ近くにあるバス停から、バスで博多駅へと向かう。博多の空は薄曇りであった。涼しいので、雲が出やすいのだろうか。

▲ 普通小倉行き

 6時40分発の普通小倉行に乗る。昨日新飯塚から乗った車両と同タイプである。小倉行だが、吉塚から篠栗線へと入り筑豊本線に迂回して折尾から鹿児島本線へと向かう。いわゆる福北ゆたか線の電車である。最長片道切符の経路は、吉塚から篠栗線へと入るので、僕にとっては都合の良い電車である。

 早朝の博多は、意外に人がまばらである。九州最大の駅だから、平日は朝から賑わっているものかと思ったが、案外そうでもないようだ。小倉行の電車も、乗車率は低く、僕の周りには数人が座席に座るだけであった。

 吉塚を出ると、篠栗線に入るが、それと共に単線へと変わった。車窓に映る風景は住宅地が目立つが、博多のベッドタウンを結ぶ路線としては単線というのが寂しい。しかし、左右を見ても、複線化にするには土地が足りないようにも思うから、しばらくは単線のままなのだろう。

 長者原駅に到着した。近代的な島式ホームで電車を待つ人が多い。しかし、この電車には乗ってこないから、博多へ向かうようである。

 篠栗あたりから田畑が多く見られるようになった。篠栗を出ると、山の中へ入る。確かに、こういう景色を見ると複線は不要に思う。その山を越えると、飯塚盆地の南端へと出てきた。博多から僅かに30分で、こうもガラリと景色が変わるのに驚いた。福岡都市圏は思ったより大きくはなさそうである。

 7時19分、列車は桂川駅に到着した。僕はここで下車をした。

27.2 きょうのポイント

 筑豊本線は、北九州市の若松駅から鹿児島本線の原田駅とを結ぶ路線である。博多を通らずに飯塚盆地を南北に走るように敷設されたのは、後藤寺線などと同様、筑豊炭田の石炭輸送を支援するためである。石炭産業が隆盛を極めていた頃、折尾から原田の間を博多を通らずに筑豊本線を突っ切る特別急行列車も存在したほどである。石炭産業が衰退してしまった今は、すっかり地味なローカル線と成り下がってしまい、専ら博多や折尾、黒崎、小倉方面との地域間輸送を担っている。運行系統も、若松~折尾、折尾~桂川、桂川~原田と分割され、そのうち折尾~桂川は近年、福北ゆたか線という愛称付で電化され、博多~小倉を電車で結ぶようになったのである。若松~折尾間は北九州市内の路線だから、都市部にあってそこそこの需要はあるらしい。しかし、桂川~原田間は利用客数が低迷し、需要がないのだから供給も少ない。

 ゆえに、きょうの旅程を立てる上で、この区間を核にせねばならなかった。この区間を早いうちに乗ってしまうことで、後の旅程に余裕ができる。よってこの時間に乗ることにしたのである。

▲ 桂川駅

 桂川駅は、博多方面への通勤・通学の乗客が集まっていた。7時29分、原田方面から桂川止まりの列車が到着した。こちらからも多くの乗客が降りてくる。これが折り返し原田行の普通列車となるが、乗り込む乗客の数は少ない。人が多く集まっているホームに、博多行の特急かいおう3号が到着すると、ホームから人が消えた。

▲ 普通原田行き

 7時40分、原田行の普通列車が出発した。最初は乗車率は低いと思ったが、発車してみると小学生が多い。車窓には田園地帯が広がり、その閑散ぶりには福岡近郊区間とは思えないくらいである。またこんな閑散とした区間を、往年の名特急、みどり、かもめ、あかつきなどが走っていたとは思えない。

 筑前内野駅を出ると、列車はトンネルへと入った。ちょうど、飯塚と筑紫野の間にある冷水峠である。列車は、九州最大の平野、筑紫平野へと入った。右側から鹿児島本線の線路が近づいてきた。8時08分、列車は原田駅に到着した。

27.3 佐賀県に入る

▲ 原田駅

 原田駅で途中下車印をもらう。外に出て駅舎を見ると、近代的な造りをしている。朝日に照らされた駅舎が眩しい。昔のままのホームの様子とは正反対である。

▲ 普通羽犬塚行き

 原田駅からは、8時19分の羽犬塚行の快速電車に乗る。JR九州の代表的な近郊形電車813系である。鹿児島本線から長崎本線、日豊本線、筑豊本線など九州北部の幹線で運行されている。前面の黒を赤色が囲むようにしたデザインは、鉄道車輌のものとしては斬新であり、脱国鉄のイメージとしては申し分ない。

 車内は、比較的空いていた。大きな荷物を持つと、空いている車内は好都合である。転換クロスシートに腰を掛けて、流れる車窓を眺める。原田駅を出てすぐに佐賀県へと入った。この旅の終着駅、肥前山口駅が佐賀県の駅だということを思えば、いよいよ来るところまで来たなという思いである。そう思っていると、ギュルルと腹が鳴った。そういえば、今朝はまだ何も食べていなかった。

 8時28分に鳥栖へ到着した。僕は、きっぷを買うために改札口を出た。

27.4 長崎本線

▲ 鳥栖駅

 自由席特急券を購入して、5番線へ行く。鳥栖の駅うどんは旨いと知っているから、早速注文をしようとスタンドへ向かう。しかし、スタンドには駅弁が積まれており、せっかくなのでうどんを諦めて駅弁を買うことにした。

 焼麦弁当を鞄に詰めて、列車を待つ。向かい側、4番線に鳥栖で折り返しとなる赤間行の普通電車が到着した。程なくして、5番線に大蛇のように身体をくねらせるようにして、特急列車が到着した。

 国鉄時代の特急・急行列車には、多層立て列車というのが存在した。愛称の異なる列車が、途中駅まで併結して走り、分岐駅でその連結を解いてそれぞれ目的地へと向かうのである。始発駅から終着駅までそれぞれ独立して運行しないのは、ダイヤの編成上走らせる場所が限定されていたのと(すなわち、時間あたりの運行本数が決まっていたとすると、独立して走らせる分だけ他の列車の運行する余地がなくなるということである)、人的経費を抑える目的がある。主には、後者の方が理由として挙げられるようである。現在でも、JR東日本の新幹線や、JR四国の特急、東海道・山陽本線を走る寝台特急列車などで多く見られ、この長崎本線を行く特急列車もまた、多層立て列車である。多くは2つの列車を併結するのに対して、こちらは3つの特急列車を併結している。

 1号車から5号車までの5両が長崎行特急かもめ7号、7号車から10号車までの4両がハウステンボス行特急ハウステンボス3号、11号車から14号車までの4両が佐世保行特急みどり3号である。蛇のように体をくねらせるように見えたのも、13両編成という長大編成のためである。

▲ 特急かもめ7号、ハウステンボス3号、みどり3号

 8時53分、3本合わせ技のような特急列車が発車した。僕は、ハウステンボス3号に乗り込んだ。佐賀までの乗車なので、今回は自由席である。ハウステンボスに使われる783系は、1両の真ん中に乗降口のデッキがあり、前後に客室があるという変則的な構造である。そういえば、昨日のにちりんシーガイア18号もそうであった。

 鳥栖市の陸上競技場の横を通ると、車窓風景は水田地帯へと変わる。筑後平野の北部から西部へと移るが、これほど広大な平野であるのに、市街よりも水田の方が多いのは珍しい。吉野ヶ里遺跡の南側を抜けてしばらく走ると、佐賀駅に到着する旨のアナウンスが流れる。しかし、車窓には水田が多く、県庁所在地の雰囲気は感じられない。そう思っていると、急に市街地の中へと入り、列車は佐賀駅に到着した。

27.5 肥前山口行きに乗る

▲ 佐賀駅

 佐賀駅は、佐賀県の県庁所在地駅である。高架で2面4線の立派な駅である。僕がここで下車したのは、佐賀駅の入場券を買うためであった。県庁所在地駅の入場券を趣味で蒐集しているが、九州では佐賀駅のみ集められていなかったのである。

▲ 普通肥前山口行き

 そんな私用を済ませて、再びホームへと戻る。9時19分発の肥前山口行普通列車に乗る。国鉄時代の近郊形電車で、かつて常磐線で走っていたものの亜種である。

 僕の持つ切符は、着駅が肥前山口である。ということは、この列車に乗って終点まで行けば、この切符は使い終わり、すなわちこの旅は完結する。ところが、切符に添付されている経由別紙を見ると、長崎本線(鳥栖~肥前山口)の他、さらに続いている。これは、どういうことなのだろうか。

 旅客営業規則第26条第1号には、「普通旅客運賃計算経路の連続した区間を片道1回」乗車するときに片道乗車券を発売するとある。これは、片道切符が一本道でなければならないことを指している。さらに同条ただし書きでは、「第68条第4項の規定により(中略)運賃計算キロを打ち切って計算する場合は、当該打切りとなる駅までの区間のものに限り発売する」と規定されている。そこで第68条を見ると、その第1号では「計算経路が環状線1周となる場合は、環状線1周となる駅の前後の区間の(中略)運賃計算キロを打ち切って計算する」とある。これは、グルッと回って来て、2度目に通る駅で片道切符の経路は途切れるという意味である。環状線とは、何も発駅と着駅が同一の場合だけとは限定されていないので、山手線や大阪環状線のような円形だけでなく、全行程の一部分が輪っかになっている場合も含まれる。一部分といっても、同じ駅を2度通ると片道切符はそこで途切れるから、終端部分において環状する場合というのが適切だろう。とすれば、肥前山口駅はこれから1度目に通るのだから、まだこの旅は終わらない。

 かくして、筑後平野の西端部までやってきた。9時34分、1度目の肥前山口駅に到着である。

27.6 佐世保線

 ここがゴールとなる駅である。しかし、最長片道切符の経路はさらに続く。ここからは、2度目の、すなわち終着地としての肥前山口駅への経路は2通りある。前述のように、今回の旅は、最後に環状線を一周することで終結する。環状線なのだから、右回り、左回りとあるのだ。右回りの場合、肥前山口から長崎本線を行き、諫早から大村線、早岐から佐世保線に乗り、肥前山口駅へと至る。一方、左回りの場合は、その逆で、先に佐世保線、大村線と乗り、最後に諫早から長崎本線で肥前山口へと至るのである。僕は、後者を選んだ。これは、きっぷの申込前に決めたことだから、行程などは全く無視したもので、選んだ理由はといえば、後者の方が経由線区の数が一つ多かったからである。

▲ 普通早岐行き

 かくして、僕は、9時38分発の佐世保線普通早岐行に乗る。福北ゆたか線で乗ったのと同じタイプの817系電車である。観光に出かけている風のお嬢様方が乗っている。僕は、早速、鳥栖で買っておいた焼麦弁当を開けて、遅めの朝食とする。

▲ 焼売弁当

 列車が武雄温泉に到着した。高架駅になるようである。将来は、九州新幹線長崎ルートが通る予定となっており、駅前はすっかりと変わるだろう。時間があれば、武雄温泉で下車をして、温泉を浴びて行きたいところである。しかし、実を言うと、僕は所用で明日の夕方までに帰阪せねばならない。ということは、遅くとも博多を昼過ぎには出なくてはならず、肥前山口駅には午前中に到着せねばならない。この後、佐世保や諫早にて寄り道することも考えているから、今回は泣く泣く武雄温泉を切ることにした。

 武雄温泉を出ると、列車は山の中を行く。曇り空とも相まって、辺りが水墨画のような雰囲気に映るのは、有田焼の窯処であるからかもしれない。煉瓦の煙突が幾つか建ち並ぶが、集落自体がひっそりとしている様子である。

▲ 有田駅

 その有田の中心地となる有田駅に到着した。ここでは10時13分から10時23分までの10分間停まるというので、僕は電車を降りて駅に行ってみることにした。有田駅は、松浦鉄道の駅でもあるから、ここはちょっと窓口を覗いておこう。

 趣味発券は集めるために買うのであるから、切符の持つ性格上、「乗車する」という本来目的に反する買い方になる。それと物欲というジレンマに挟まれて幾ばくかの後ろめたさを背負いつつ、窓口へと向かい、趣味発券をお願いする。わざわざ趣味発券などと言わなくても良いのだろうが、明らかに旅行者風情の者が次駅までの補充片道券やら補充往復券やらを複数枚同時に買っていくのだから、黙っていたってわかる。松浦鉄道有田駅の窓口のおじさんは、「字が汚いんだけど良い?」と謙遜していたが、中々達筆であった。

 有田を出ると、46番目の県、長崎県へと入った。これで沖縄を除く46都道府県すべてをこの旅で回ったことになる。ゴールとなる肥前山口駅は45番目の県、佐賀県であるから、46番目から45番目へと戻ることになり、もう一つ果ての果てまで来たという感が出てこない。

 10時39分、列車は終点の早岐駅に到着した。

27.6 少し寄り道をする

▲ 普通佐世保行き

 早岐駅からは、大村線を南下すればいいが、ここまで来たのなら、この際JR最西端駅を訪問しておかねばならないだろう。そこで私は、10時43分発の佐世保行の普通列車に乗車した。

 佐世保行の普通列車は気動車であった。早岐が始発であり、終点の佐世保までは電化区間である。それにも関わらず、気動車であるのは、この車両が佐世保発の長崎行快速シーサイドライナーとなって折り返すためである。

 佐世保線は、面白い線形をしている。早岐駅でスイッチバックの線形となっているのである。通常、東海道本線にせよ、山陽本線にせよ、ほとんどの路線は起点から終点までは進行方向を変えずに進むことが出来る。ほとんどということは、そうではない路線もあるということで、例えば、先日通った肥薩線や豊肥本線などのスイッチバックが挙げられる。しかし、これは勾配をクリアするために一時的に進行方向が変わるのであり、結局は元の進行方向へと戻る。ところが、この佐世保線は、勾配が理由でもないのに早岐駅を境に進行方向が逆転する。どういうことかというと、有田、早岐、佐世保という3地点が、アルファベットのYの字で結ばれるためである。すなわち、平面の位置関係によるのである。したがって、肥前山口方面からやってきた佐世保行きの列車は、特急列車もすべてここで進行方向を変える。だから、博多からやってくる特急みどりは、ハウステンボス号の後に連結されるのである。こういった同一路線内での線形を持つのは、JRでは佐世保線の他、花輪線がある。

 早岐を出ると、両側を山に挟まれた谷間を行く。トンネルを抜けて、しばらく走ると、佐世保の街が見え出す。こう見ると、佐賀よりも人家の密集具合が大きいのではないかと思うが、それは、佐賀が筑後平野の中にあり、周囲の視界が広い分、そう感じたのかもしれない。佐世保は北側に山があり、南側は海なので平野部が少ないのである。

 10時55分、近年、高架駅に生まれ変わった佐世保駅に到着した。

27.7 大村線

▲ 佐世保駅

 佐世保駅で早岐からの運賃を精算して、改札の外へと出る。すぐ前に駅弁屋があり、早速、昼食に「レモンステーキ弁当」を購入する。佐世保に来たのは、JR最西端駅を訪問するだけでなく、この名物駅弁を購入するためでもあった。

▲ JR 日本最西端の駅の碑

 佐世保駅の外へ出る。曇っていたはずなのに、日差しがきつく、暑い。「JR最西端の駅」とある石碑を見ると、西大山で感じたのと同様の、7月の北海道に対する思いを起こさせた。これで、この旅においてJRの最北端、最東端、最南端、最西端の駅を訪れることができた。

 早岐までの乗車券を買って、ホームへと行く。長崎行の発車時刻まではまだ15分くらいある。そこで、僕は松浦鉄道のホームまで行ってみることにした。有田駅の場合と目的は同じである。

▲ 快速シーサイドライナー

 11時33分発の快速シーサイドライナー長崎行に乗る。先ほど乗ってきた佐世保行の折り返しである。早岐から大村線へと入るので、最長片道切符の経路と重なって都合がよい。

 早岐から最長片道切符の経路に戻る。右の車窓には、川が見えるが、これは早岐瀬戸である。早岐瀬戸は佐世保湾と大村湾を結ぶ水路であり、瀬戸は狭い海峡を意味するから、実は川ではなく海である。しかし、初めて見た人は、その対岸の近さに、川だと思うだろう。それがハウステンボスまで続くから、ますます川だと勘違いする。

▲ ハウステンボス

 ハウステンボス駅を出ると、早岐瀬戸から離れた。そして、小さな駅を通過する。小さな駅だがホームは長く、過ぎ去っていく駅名標を見ると「はえのさき」の文字が見えた。南風崎駅である。

 南風崎駅は、今ではせいぜい難読駅名の一つくらいにしか思われていないが、大東亜戦争を経験した人々、特に引揚者にとっては忘れることのできない駅であろう。戦後、海外からの引揚者は小樽、下関、門司、舞鶴、博多の他、佐世保の各港から上陸した。佐世保といっても、現在の佐世保港ではなく、浦頭という佐世保の市街地から南東へ約8キロメートルに位置する佐世保湾に面する場所である。引揚者は、現在のハウステンボスがある場所に存在した佐世保引揚援護局まで歩き、手続きをした後、今度は帰路につくために、南風崎駅まで歩いていったのだそうである。その数、一人や二人ではなく、昭和20年10月から25年4月までの間に、140万人弱がこの地を踏んだということである。とすれば、単純に平均すると1日辺り約850人が引き揚げられたということであり、南風崎駅は引揚者が列をなしていたことだろう。ホームが長いのも合点がいく。南風崎始発の東京行の普通列車があったというから、大阪や東京方面へ帰る人にとっては、まだまだ長い帰路の一通過点に過ぎなかったのかもしれないが。

 現在の南風崎駅は、そんな歴史の舞台であったことなど想像もつかないくらいの寂れた小駅であり、快速シーサイドライナーは、当然のことながら、そんな歴史を慮ることもなく、通過していく。

▲ 元祖レモンステーキ弁当

 佐世保駅で買っておいた「レモンステーキ弁当」を食べる。柔らかい肉であり、美味い。期待通り、いや期待以上の旨さである。こういう駅弁と出会えたことに、僕は嬉しくなった。名駅弁と言って差し支えないだろう。

▲ 大村湾

 しばらく走ると、右の車窓に海が見えた。対岸が見えるから、一見湖のようだが、大村湾であり歴とした海である。湾口が東京湾や大阪湾などと比べると、随分と狭い。したがって、浜名湖や中海のような汽水湖のようであるが、塩分濃度は海水に近いので、やはり海なのである。

 大村駅を出ると、大村湾から離れる。車内も混雑してきた。車窓に人家が目立ち、列車は減速する。左から長崎本線の線路が近づき、合流する。12時41分、列車は諫早駅に到着した。僕は、ここで下車をした。

 諫早駅で途中下車印を押してもらい、最長片道切符の使用を中断する。今夜は、小浜温泉にて一泊し、明日は特急かもめ号で直接肥前山口駅へ行こうと思っているから、これが最後の途中下車である。そして、途中下車印を押してもらうのもこれが最後となった。

27.8 最後の寄り道

▲ 諫早駅

 このまま諫早から長崎本線の上り列車に乗れば、今日中に、しかも明るいうちに肥前山口駅へ行くことができる。しかし、僕はここで寄り道をして島原鉄道の旅をしてみようと思う。実を言うと、島原鉄道にはまだ乗ったことがないので、この機会に乗っておこうという魂胆である。さらに、島原鉄道の南線は来年春には廃止されるというから、良い機会である。

 諫早駅の券売機で島原鉄道のフリーチケットを買う。「島原半島遊湯券」といって、島原鉄道の鉄道線の他、バスやフェリーにも乗れるらしい。

▲ 島原鉄道普通加津佐行き

 12時54分発の加津佐行普通列車に乗車した。黄色いボディは、日田彦山線で乗った車両と同タイプだが、前面には風車、側面には赤ん坊を負ぶった女の子のイラストが描かれている。

 乗車すると、既に多くの人で混雑をしていた。地方のローカル線特有のことで、本数が少なく両数も少ないことから、乗客が集中する。しかし、これが本来望むべく状態であるから、空気輸送をして、結局廃線となるよりはずっと良い。

▲ サッカーの町くにみ

 諫早を出ると、諫早の市街地の南東部を横切って行く。住宅地が多いが、しばらく走ると水田地帯が見え始めた。天気が良く、日差しが車内に入ってくるので、みんなカーテンを閉めている。どうも薄暗い。吾妻駅を出ると、左車窓に海が見えた。有明海である。多比良町駅まで来ると、雨が降ってきた。晴れているので、通り雨である。多比良町駅のホームには、サッカーボールの石碑が飾られている。「サッカーのまち くにみ」とある。ああ、あの国見高校かと意外な発見に驚く。

▲ 大三東駅にて

 多比良町駅を出ると雨は止み、すぐに青空が戻ってきた。大三東駅に着くと、そこは有明海のすぐ側であり、青い海が目の前に広がっている。海に近い駅は、いくらかあれど、この駅の雰囲気は素晴らしい。まるで絵画のようである。

 雲仙岳は普賢岳を中心とした火山群の総称である。普賢岳は、1990年に噴火し、翌年には火砕流が発生して大規模な被害を出した。火砕流という言葉は、このときに初めて巷間知れ渡ることになったように思う。あれから16年経ったのである。

▲ 雲仙岳が見えてきた

 三会駅から徐々に人家が増えてきた。島原駅は、城下町らしく、大手門を模している。ここで降りて島原城を訪問するのも良いが、今回は先を急ぐので遠慮しておく。

▲ 素敵な景色

 島鉄本社前駅を出ると、右に港湾が見える。漁業で使う小舟が浮かび、情緒的だ。列車は、14時15分に南島原へ到着した。このまま加津佐まで行っても良かったが、僕はここで降りることにした。

27.9 郵便局を見落とす

▲ 南島原駅

 南島原で切符をなどを買った後、現金を引き出しに郵便局を探しに行った。地図を見ると、少し南へ歩いたところに郵便局があるらしい。街を見て歩くのも兼ねて、僕はその郵便局へ向かった。

 しかし、歩けど歩けど郵便局と思しき看板が見あたらない。郵便局自体は、国道から西へ斜めに分岐した筋にあるそうだが、それが見あたらない。いつの間にか、島原外港駅の近くまで歩いてきてしまった。

 そこで、島原外港駅で郵便局の場所を聞くと、窓口嬢は「フェリー乗り場にあります」と教えてくれた。早速、島原外港へ行ってみると、フェリー乗り場の中に郵便局があった。しかし、ATMがないので窓口で聞いてみると、「こちらで出せますよ」と郵便嬢は言う。通帳を持っていないので、その旨を伝えると、「カードだけでも大丈夫ですよ」と言った。窓口では、てっきり通帳が必要なのだと思っていたので、僕は意外に思った。

 これから南島原まで歩かねばならないのかと思うと億劫で、それならば島原外港駅から列車で戻れば良いのだが、諫早行の列車の席を確保したいという思いから、タクシーで戻ることにした。

 南島原駅まで戻ってホームへ出ると、肌色に赤のラインが入ったディーゼルカーが停車していた。諫早行の普通列車で、キハ20形である。島原鉄道一般色といって、これがスタンダードなカラーリングである。車内に入ると、数人が乗っているだけで空席が目立ったが、加津佐から来た列車が到着すると、乗り換えの客であっという間に人が増えた。

▲ 普通諫早行き

 15時06分発の諫早行普通列車が出発した。2両編成でワンマン運転には対応していないからだろう、車掌が乗務している。無人駅の多いローカル線で車掌が乗務しているということは、車内できっぷを発売するということであり、早速購入する。縦に長い車内補充券で、パンチで穴を空けて対応する。

▲ 漁船が駆け抜ける

 大三東駅に到着すると、ホームの向こう側に広がる有明海を横切るようにして、漁船が高速で海原を駆け抜けていく。良い天気である。

 15時56分に愛野駅に到着した。僕はここで降りる。

27.10 そして、加津佐へ

▲ 愛野駅

 愛野駅は三角屋根のかわいらしい駅である。「愛しの吾妻とふたりで・・・幸せへの記念入場券」なる切符を窓口で買う。島原鉄道にある、幸駅の入場券と、愛野から吾妻までの乗車券をセットにしたものである。

▲ 普通加津佐行き

 愛野からは、16時13分発の加津佐行普通列車に乗る。黄色の新型で、車内にはそこそこの乗客が乗っていた。

 多比良町駅からは、学校帰りの高校生らが乗り込んできた。国見高校の生徒だろう。車内は一気に賑やかになる。

▲ うっすらと虹が掛かった

 大三東駅辺りを走っているとき、海に虹が架かっているのが見えた。あの辺りで雨が降っているのだろう。虹を見つけると、何だか得をしたような気がする。

 列車が島原駅に到着した。何人かの国見高校の生徒たちが降り、別の高校生らが乗り込んできた。賑やかさは変わらない。中学時代に同窓生だった風の生徒たちが、久々に顔を合わせて、さらに盛り上がる。僕は、ヘッドホンをして音楽を聴くことにした。

▲ 水無川を渡る橋

 しかし、その盛り上がりも、南島原、島原外港と停まっていくうちに減っていき、車内は落ち着いた。10分ほど走ると、左の車窓に水色の鉄橋と白い鉄橋が並んで建てられているのが見えた。どうやら国道と島原鉄道の鉄橋であり、カーブの先に続いている。

▲ 夕焼けがきれい

 有馬吉川駅を出てしばらく走ると、左の車窓に海が見えた。西の空が徐々にオレンジがかってきて、夕焼けが空に染みだした。ヘッドホンからは、ロクセンチの「夕凪オレンジ」が流れていた。

▲ 加津佐駅

 18時24分、列車は終点の加津佐に到着した。加津佐まで乗った客は、僅かであった。加津佐は、無人駅でひっそりとしていた。薄暗くなった加津佐駅前をバス停へと向かって歩き出した。

27.11 きょうの終わりに

▲ 島鉄バス 小浜行き

 ここからは、バスに乗って小浜温泉へと向かう。小浜行の島鉄バスは、乗降口が前に一つだけのバスであった。乗ってみると、多くの高校生が乗っている。一人の男子高校生が隣の席を勧めてくれた。

 聞けば、口加高校の生徒さんだという。しばし、彼と話をして過ごす。峠を越えて行くと、小浜温泉であった。

 小浜温泉はすっかり暗くなっていた。予約していた宿まで温泉街の裏道を歩いて行く。小浜タウンホテルが今日の、そして、この旅最後の宿となる。

 食事を取って、一息つく。今朝、博多を出たことが遠い遠い過去のような気がする。稚内を出たときのこと、いやトワイライトエクスプレスで大阪を発ったことなど、遥か遥か遠い過去の記憶となっていた。

 切符の有効期限は、残り1日。明日にはこの旅が完結する。それはようやくの思いでゴールできる楽しみと同時に、この旅と別れねばならぬ寂しさも内包していた。この夜が終わらなければ良いのにとふとんの中で思う。

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