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混乱、焦燥、でもそれは今ではない。

今朝の散歩で見つけた様子である。

中国ではこうした様子を見かけることがある。
そして第一印象は絡まっているということだ。

どうみても、分かりにくいし、まとまっていない。
もう少し分かりやすくまとめられないものかと思ってしまう。

これは私の脳や部屋でも同じことだと気づく。
どう見ても散らかっていると分かる様子だと自負している。

これを身近な例として考えると、
車に乗って待ち合わせ場所に向かおうとしたところ、
渋滞にハマってしまって動けなくなったというところだろうか。

そういう状況になると、
私たちはどうしても「焦って」しまう。
部屋が散らかっていると「整頓したく」なる。

その意識は正しく、
渋滞がなくなったり、
部屋がきれいになったりすると
気持ちが良くなることが多い。

ただし、渋滞がなくならず
心配になったり、
部屋がきれいになるまで
目について集中できなくなる
といったことも考えられる。

さて、そうなると
なぜ私たちは「焦る」や「整頓したい」のか。
それは未来に「気持ち良くなる」ことを期待しているからではないか。

つまり未来の瞬間を考え、
今の気持ちに影響を与えていることが分かる。
それは「今」を生きていることになるのだろうか。

渋滞が起これば
ラジオを聞いたり、携帯で仕事したり
その時を楽しむこともできる。

散らかっていれば
散らかりようを楽しむ
こともできるだろう。
散っていて悪いこともない。

ではなぜ、私たちは
「焦る」「心配する」ことを
期待しているのだろうか。
それが「当たり前」になっているのだろうか。

別に今どれだけ心配したとしても
渋滞はなくならない。
散らかっているといっても、
別に問題が起こらなければ
そこで暮らしても良い。

「正しい」「未来」が
私を束縛していると気づいた時、
今日見たこの機械が

「まあ、これでも良いか。記事にできるし」

と考えそれを見つめるのだった。

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