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完全なる防寒と職務質問

毎朝、布団から這い出るのがつらい。冬の寒さが、いっそうきびしくなってきている。

とはいえ、神奈川県の海沿いの町には雪なんてめったに積もらないし、海から吹く南寄りの風にはあたたかさすらある。北海道や東北、日本海側の豪雪地帯にくらべるとなんてことはないだろう。天気予報を見るたびに、それは感じてあるけれど、でも、寒いことには変わりない。

毎朝の通勤時、わたしはできる限りの防寒対策をする。

ヒートテックの下着やタイツを履く。もこもこしたダウンジャケットのファスナーは、一番上までしっかりとしめる。なんなら、フードまでかぶって頭部を防寒。乾燥対策でもあるマスクをつけていると頬のあたりも温かい。手ぶくろも使いたいけれど、いつも片方だけ落として、なくしてしまうため、最近ではポケットに手を突っ込んでいる。

しっかり防寒していると、父がぷりぷりと怒って帰ってきた幼い日のことを思い出す。

父はたいそうな防寒をしていたせいで、出勤途中に職務質問にあったのだという。もう三十年ちかくむかしの話だ。

シフト制の勤務だった父は、始発で出勤することもしばしばあった。まだ真っ暗な朝の四時に起きて支度していた。

冬の早朝は冷え込みがきびしく、父はしっかりと防寒していた。

黒い厚手のジャンパーに、手ぶくろ。ジャンパーの下はタートルネック。ニット帽を目深に被り、マスクをつける。視力も悪いため、メガネもかけていた。露出している肌はほとんど見えない。レンズごしに光るきびしい目つきをした目玉だけが、ぎょろぎょろと動いていたのだろう。

早朝勤務の途中、父は職務質問にあったという。父の出勤スタイルは、ちょっと怪しいと思わせるものがあったのだろう。なんなら二日酔いでのこる、酒の匂いがしていたのかもしれない。

また、やっかいなことに、父は本人確認できるようなものを名刺しかもっていなかった。そもそも運転免許は取得していないし、健康保険証も、一人ひとりに渡されるカードタイプのものではなくて、文庫本くらいのサイズの、三つ折りにされた厚紙みたいなものだった。家に置いておいて、病院に行くというときだけ持ち歩くようにしていたので、所持していなかった。父は仕事に行くとき、社員証も持ち歩いてはおらず、名刺だけを渡して、なんとかその場をきりぬけたらしい。


そうして、父は「こっちは朝早よから仕事に行ってんのに。職務質問されるとは、けったくそ悪い!」と、帰宅してからも、ずうっと怒っていた。

けれども、姉とわたしは父の怒りに触れるのは面倒だといいながら別の部屋に行き、くすくすと声をひそめて笑いあってしまった。

まじめに仕事に行っただけなのに、その姿が怪しまれるなんて、子ども心には可笑しくてしかたなかったのだろう。今ならちょっと、不憫に思うけれど、当時のわたしには可笑しくて仕方なかった。


今の私の出勤スタイルも、怪しいといえば怪しいのだ。周りにいる人たちは、だれもフードをかぶったりはしていない。もしも通勤時間が朝の四時ならば、わたしも職務質問されるのかもしれないなと、ぼんやり思いながら毎朝、駅のホームでぼんやりと電車の到着を待っているのだった。


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