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続けてきたことを、また続けていこう。

令和元年にやりたいことって、なんだろう。そう考えてみても「これ!」というのが思いつかなかった。

このnoteを書いているのは平成31年4月30日の16:30。いよいよ平成も終わりをむかえる。

昭和から平成に改元したとき、わたしは小学生だった。父方の祖父は、昭和天皇のファンだった。失礼な言い方かもしれないけれど、祖父本人がそういっていたらしいので、仕方ない。ファンといっても、祖父は戦争中を生きているわけだから、天皇陛下を神様と崇めていた時代にも生きているわけだから、それも全部わかっていて、「ファン」という言い方をしていたのだと思う。

昭和天皇が崩御され、祖父はとってもショックを受けていたらしい。そうして、三週間後くらいに、祖父自身も脳溢血が原因で他界した。

わたしにとっての昭和から平成の改元は祖父の死から始まる。そうして、わたしの父も平成の終わりに亡くなってしまった。そのためか、父がいなくなって、令和が始まるんだなという気持ちでもある。

世間の改元に対するお祝いムードに水を差すわけじゃない。「親がいなくなっても、自分でがんばっていく時代が始まるんだな」といった、地に足をつけて歩んでいこうという気持ちでもある。

あらためて、noteのお題である「令和元年にやりたいこと」だけれど、わたし自身にとって「令和になったね! じゃあやってみよう!」といった考え方がない。noteのお題が発表されてから、何を書こうかと迷っていたけれど、その答えにようやくたどり着いた。ほんとうに、結構悩んでいたけれど「令和元年だから、やってみよう!」とはどうしても思えない。ずうっとやろうと考えていたことや、アイデアができてきた小説を書こうというのはある。けれど、それらはすべて平成から地続きでやってきたことをすすめているだけでもある。新しいこと、とはいえない。

こうしてエッセイのようなものや、まだまだ勉強中だけれど、小説を書くようになったのが、数年前のことだ。もっとおもしろく、うまく書けるようになりたいと思いながら日々過ごしている。

そのために、こればっかりは平成から令和へと元号が変わっても、変わらずに続けていくことだし、強制されているわけでもなく、お金になるわけでもないけれど、わたし自身が続けていきたいことなのだと気がついた。

チャレンジ精神がないとか、冷めているわけじゃなくって、自分にできることは、ただコツコツ続けるしかないんだよなあという、ある意味自虐的な気持ちすらある。けれど、自分にとって「(好き勝手に)文章を書くこと」が、楽しいと思えているうちは、おそらく精神的には健康で、やりたいことをやっているんだと思う。

令和元年にやりたいこと、というよりは、元号が令和のあいだは、健康で、平和で、好き勝手に書いても検閲とかなくって、好きなことを好きなように続けられたらいいなあと願っている。


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