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自分のリズムで息ができないと、生きるのがちょっと辛くなるのかもしれない。

最近、ふと「生きづらいというのは、こういうことかもしれない」と、少しだけ気がついたことがある。自分の体感なので、すべての人には当てはまらないだろうし、そんな単純なことでもないだろうけれど。

気がついたタイミングは、外出先でトイレの個室に入ったときだった。そこの洋式トイレは「立ち上がると自動で便器の水が流れる」タイプだった。

ただ、このタイプのトイレは、ちょっと動いただけでも水が流れることがある。便座に座って、上半身だけあれこれ動くようなことはあまりないとは思う。けれど、女性の場合なら、経験のある人もいると思うけれど、便座に座った後に、生理用品が入っているポーチを取り出さなくっちゃと立ち上がることもある。まだ流さなくっていいタイミングで、ざあっと水は流れていってしまう。

尾籠な話で申し訳ないが、自動で水が流れてしまうタイプのトイレでは、排泄を済ませて、トイレットペーパーでおしりなどを拭いているタイミングでざあっと流れていってしまうこともある。少し、腰を浮かせた状態で拭くのがいけないのだろう。けれど、これはもうクセみたいなもので、仕方ない。いまさらそのクセをやめないと、とも思わない。

ただ、まだ拭き終わらないタイミングでざあっと水が流れていってしまうと、「あ、ちょっとまって」とあわてて拭いてトイレットペーパーを流れていく渦巻きのなかにぽいっと放り込む。なんというか、水がもったいない気がするし、また水がたまるのを待たなくちゃいけないのもイヤだから。

ただ、そうして慌ててトイレットペーパーを投げ入れても、タイミングが合わなければ全部は流れていってくれず、結局はもう一度水がたまるのをまって、流さなくてはいけない。

他にも、手を洗う洗面台で、自動で水が出るタイプだと、水の出るタイミングが自分の手を差し出したときとかみ合わなくって、思うように手を洗えなかったり、水の出る水量が、思っていたよりも強くって、びしゃあっと水しぶきが飛んで、洋服が濡れてしまうこともある。

出先でトイレに行くだけでも、一苦労だ。

ただ、これはトイレに限ったことだけではない。自分を取り巻く環境のすべてにおいて言えることだろう。トイレは個室に入ると、そこはプライベートな空間なのに、他者(というか機械のペース)に合わせなくちゃいけないことによって感じるストレスのたぐいだ。

機械だから、一方的に押し付けられるし、ストレスを受けたとしても「はあーあ」とため息をついてどうにかごまかそうと思えばごまかせる。けれど、人対人、自分対自分ではない大勢の人と考えると、ごまかしがきかない事も多い。自分ではない大勢の人の中には、家族や兄弟だって入るし、学校の同じクラスの人や先輩後輩、教師なんかもその部類に入るだろう。

小学生のとき、同じクラスの女の子で、ものすごく給食を食べるのが遅い子がいた。給食の時間の後にお昼休みがあるのだけれど、給食が食べ終わった子から、遊びに行ってよかったのだけれど、その女の子はお昼休みの間もひとりでずっとご飯を食べていた。時には、お昼休みがなくて、給食の後なぜか掃除をすることになっていた。掃除の時は机を移動しなくちゃいけないのだけれど、それでも彼女は食べ終わっていなくって、「はよ食べろよ」などと、いじわるな男子が言っていたけれど、食べるペースなんて急には変えられないから、その子は周りが掃除を始めている中で、食べ続けていた。

近くで見ていたわたしは「早く食べちゃえばいいのに」と思っていたけれど、それができないんだということを、中学生になってから、身をもって嫌という程思い知らされた。

中学二年生の秋ごろから、わたしは拒食症になった。中学の頃は給食ではなく各自お弁当を持ってきてお昼に食べるのだけれど、食事の時間が苦痛で仕方なかった。けれど、二年生のクラスでは「食べるのゆっくりやなあ」と言いながら、周りでだべっている子たちがいた。食べるのがとにかく嫌で、お弁当を半分くらい残す事もあったけれど、そこまでペースを乱されるというのはなかった。

三年生になると、クラス替えがあった。わたしが一緒に過ごしていた子たちはお弁当を食べた後に「鬼ごっこ」をやろうと言っていて、あっという間にお弁当を食べ終えていた。わたしがまだ全然お弁当を食べてなくって「めっちゃ食べんの遅い! それくらいパパッと食べたらいいやん」と、鬼ごっこに参加しないわたしを責め始めた。もともと、鬼ごっこなんてやりたくもなかったし、その子たちと過ごすことにもうんざりしていた。食事も本当は食べたくないのに、「早く食べ終えろ」とヤイヤイ言われたことも、もう本当に嫌だった。初めのうちは、少し急いで食べたりしたけれど、後で気持ち悪くなって、トイレで吐いたりもした。

食事そのものに嫌気がさしていたけれど、それでも食べなくっちゃいけないのだから、自分のペースで食べるのに、何がいけないんだと思うようになっていった。そうして、そのグループの子たちに「あなた達のことが好きじゃない」といって、決別した。その後、ひとりでお弁当を食べるペースを崩されることもなく、午後の授業が始まる直前までゆっくりとお弁当を食べた。それでも、食べ終わらないこともあったけれど、でも毎日「早く食べ終われ」と言われ続けて食べるよりはマシだった。自分のタイミングや、リズムがあって、生きているんだからと。

自分のリズムやタイミングがいかに大事か、というのはこの時体感した。けれども体感したはずなのに、それ以降も、わたしは割と「まわりに合わせなくっちゃ」と思いながら生活していることが多く、その度に体調をくずしていった。

いま思えば、自分のリズムで暮らしてないのだから、自分の体調やメンタルが崩れていくのは当たり前のような気もするのだけれど、その時々ではわかっていなかった。

最近、システマという武術を学び始めた。この武術で一番重要なのは「呼吸」だという。呼吸が乱れる、というのは自分のペースが乱れているとき。呼吸を止めると、身体のどこかに緊張状態が生じるので、パフォーマンスが落ちる。いつでも呼吸を止めちゃいけないというのが、大前提となっている。

自分のリズムで呼吸ができない。普段の暮らしでそんなことあるかなあ? と学んでいる時にはぼんやりと思っていた。確かに、何かを我慢するときとか、集中しているときはぐっと息を止めていたり、呼吸が浅いこともある。気楽な例を挙げると、テレビで放送されている世界陸上100メートル決勝とかを見ていると、見ている方が緊張して、息を止めてぐっと前のめりになって見てしまっている。誰かがゴールした瞬間に「よーしっ!」などと息をはく。

息を吸って吐いたり、何かを食べたり。生きていくのに根本的なこと。けれど、こういったことが大事にされていない場面が多いんだなと思う。自分のタイミングで食事の時間が取れない。息をするのも苦しいほどの満員電車。大音量の目覚まし時計で、目がさめる。

自分の身体や感情のリズムや、呼吸のペースを無視した生活が暮らしていくには当たり前になっていて、そうじゃないと、はみ出し者扱いを受ける。

自分の感情にフタをして、周りに合わせたリズムで暮らしていると、それはどうしたって生きづらくなるだろう。家族のペースに合わせなくっちゃいけないならば、家の中にいるのが息苦しい。学校で、誰かのペースに合わせなくっちゃいけないなら、学校はしんどい場所でしかない。集団生活では、自分のペースではなく集団の規律を守ることに重点が置かれているので、自分のペースを保つのはむずかしい。

じゃあどうすればいいんだ、と言われると、もう各々が自分のリズムや呼吸を取り戻すしかない。具体的な方法は、その人自身にしかわからない。

自分が思いっきり楽しめること、まわりに何かを言われても、気にせずに夢中でいられるようなことを見つけるのが手っ取り早いだろうか。(夢中になっているものを「やめなさい」と、誰かに言われるとそれはまたしんどくなるだろうけれど)

歳を取るのも、多少自分のリズムを取り戻すには有効だろう。なんというか、そもそも身体が付いていかないので、他の人のリズムに合わせられない。家族と暮らしている場合には、家族のルールがあるから、それが自分にとって苦しいものなら、しんどいかもしれないが。

好き勝手に生きればいい、何をしてもいい、というわけじゃない。その匙加減がわかって、自分自身で選べるようになれば、ほんの少しは生きやすくなるのかもしれない。









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