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慣れるって、こわい。

いつだってあると思っているもの。ないほうがラクだと思ってしまうもの。
そのどちらもが、その人にとっては「当たり前」になっているのだろうけれど、第三者からみるとギョッとすることもある。

最近、父が入れ歯を作った。

父はもうずいぶんと前、たぶん十年ちかく前から歯槽膿漏で歯が抜けたり、ぐらぐらしていた。
さっさと歯医者に行けばいいのに、と父以外の家族の誰もが思っていたし、たぶん父自身も不便だし、歯医者に行こうか迷っていたとは思う。

しかし、「歯が全部抜けたら、入れ歯にしようと思ってるから、まだ行かへんねん。この歯はまだしっかりしてるやろ?」と、わずかに残る歯をアピールしていた。

わたしは「そんな一本か二本残してても、しゃーないやん。なんならいま、ペンチで抜いたら? そしたらもう入れ歯つくれるやん!」とアドバイスしたら、ものすごく嫌な顔をされたことを覚えている。

わたしとしては、年に二本ずつくらい歯が抜け落ちるのを待って、どのみち入れ歯をつくるなら、もうさっさと抜いて、いま作ればいいんじゃないか? と思ったのだけれど。

そうして父は、ぼろりぼろりと歯が抜けるのを待ち、2018年の二月にようやく決心して入れ歯を作りに歯医者へと出かけた。

入れ歯をつくるために、ぐらついた歯を歯医者で抜いてもらう必要があった。そうして、その治療の途中でどうも様子がおかしい。いろいろと検査を受けたり、入院、手術するなど、入れ歯をなかなかつくれずにいた。

退院して、歯ぐきが痩せてしまったため、入れ歯もすこし調整が必要だった。入れ歯を作ろうと決めてから、実に半年以上の時を経て完成のときを迎えたのだ。

前日、帰省したときのこと。
「お父さん、歯はどうなん? 久しぶりに歯があるってどんな感じ?」何気なくそう聞いたら。

「歯は邪魔や。ないほうがラクやで」

「えっ。あ、そうなんや……」

歯がじゃまだと言われると思っていなかったので、ちょっとびっくりした。
ただ、自分の歯ぐきから生えているものじゃないし、口の中にはめているだけだから違和感があるのかもしれない。

しかし、母と姉も「お父さん、入れ歯はめてると何しゃべってるんか、聞き取りにくい。ふがふがしてて。入れ歯外してしゃべってほしい」などという。

父の入れ歯は、歯ぐきにぴったりと密着していないらしい。そのため、ごくわずかに隙間があって、どうもその隙間から空気がもれるらしい。「なんかシューシュー、へんな音もするし。空気漏れてるんちゃうか? 聞き取られへん!」母はかなり迷惑そうだった。母の耳はすこし、聞き取りづらくなってきている。

わたしは久しぶりに父と会話して、「聞き取りにくい」とは感じなかった。むしろ、以前の歯が抜けてしまっていたころのほうが、ふがふが聞こえたように思う。けれど、すこしずつ歯が抜けていって、父の歯がすくない生活に家族全員が慣れてしまったのだろう。

「歯医者さんかて、慣れるまでは違和感ありますよ、ゆうてはった」などと、父は入れ歯になじまないのはあたり前だ、くらいの勢いだった。

わたし自身、実家の家族とはなれて暮らすことに慣れてしまったのだろう。父の言っていること、母の言っていること、定期的に連絡を取っている姉の言っていることすら、いまひとつ簡単にうなずけなくなってしまっていた。

どんな状況にも、人は慣れてしまう。慣れることは順応性がある、ともいえるし、決して悪いことではないはずだ。けれども、慣れてしまったその状態が当たり前になってしまうことは、なんだかとても、こわい。

父が入れ歯を洗浄液に入れる姿をみながら、ぼんやりとそう思った。

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