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疲れているときは、頭も目玉もはたらかない。

こころに余裕がないと、SNSを見る元気がない。

ぱたぱたとせわしなく進んでいくタイムラインは、わたしとは、どこか時間軸の違う世界のできごとのようだ。

タイムラインに流れる情報は、流しそうめんみたいなもので、手を伸ばして箸でつかみあげないといけない。ぼんやりしていると、ただ目の前をするするするっと流れていってしまうそうめんと同じ。つかみあげて、食べたいと思わないかぎり、ただただ、流れてさってしまう。わたしはそうめんを食べたいと思えなくて、腕を伸ばすこともできず、流れていくさまをただぼんやりと眺めているだけだった。

ようやく、今週になって仕事も行き始めたし、noteの更新も、再開し始めた。けれども、まだ、どことなく調子が戻ってこない。そりゃそうだと、自分自身納得しているけれど、時間の使い方すら、ちょっとわからなくなって混乱している。

いままでなら、すきま時間にnote内の いろいろなおすすめ記事をよんだり、本を読んでいたのだけれど、文章を読む気力がなんだか衰えてしまった。

本を読めない、文字を読みづらいというのは、これまでになかった感覚なので、少し戸惑っている。これも、一時的なことだとは思うのだけれど。

ただ、そんなときでも、録画していた「まんぷく」や「いだてん」や「からくりサーカス」や「ジョジョの奇妙な冒険」をみることはできる。ぼんやりと眺めていても、どんどんストーリーは展開していくし、見逃したところで、それは別に気にしなくていい。

「まんぷく」はちょうど萬平さんが即席ラーメンの開発に試行錯誤していた段階で、おおきく話が動くこともなかったし、「いだてん」も、マラソン大会に関連した内容で、展開はあったものの、理解できないことはない。

(からくりサーカスとジョジョは、展開が早いため、ぼんやり見ているとあっという間に置いてけぼりになるのだけれど……)

ただ、それはいまのわたしにとって、とてもありがたかった。ただテレビ画面をながれている、モデルはいるけれど、フィクションの人生をながめることが。

今はあまり難しいことは考えず、毎日の暮らしのリズムを取り戻すことで精いっぱいだ。離れて暮らしていたのだから、実質的になにか暮らしに変化があるわけじゃない。けれど、やっぱり寂しさがぐいぐい押し寄せてきて、そこで思考が止まってしまうのだろう。

大きな変化には、少しずつしか対応できない。SNSは瞬間で移り変わっていくものだ。それをみて、楽しむことができるのは、まだ少し時間がかかる。竹筒のなかを流れていくそうめんに、手を伸ばすのは、わたしにはまだ むずかしい。


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