見出し画像

忘れられないことと、雨上がりの傘について。

なぜひとは、忘れ物をするのだろう。
「あの夏に忘れた、たからものを探しにいこう」みたいな話じゃない。もっと生活感のある、傘やら、カバンやらのことである。

最近、勤め先のカフェでひんぱんに忘れ物がある。お客さまが会計を済ませ、店を出た直後。テーブルを片付けようとすると、荷物を入れておくように設置したかごの中には、折りたたみの日傘が入っている。

慌ててその日傘をつかみ、「忘れ物したお客さまを追いかけます!」と、オーナーに声をかけたのち店を出て走り出す。

お客さまのうしろ姿が見えているときは追いかけて渡すことができる。けれども、今しがた店を出たばかりなのに、もうどこにも姿が見えないときには、諦めるしかない。

カフェは、わりとリピートのお客様が多い。一週間後に来店されたときに「前回お忘れになりましたよ」と、そっとお返しできることもある。

けれども、「いや、これは忘れていったら困るよね……」というものもある。たとえば、病院で処方されたばかりでビニール袋たっぷりにつめられた薬。一ヶ月か二ヶ月分ほど処方されたようで、かなりかさ張るし、存在感もある。それでも、自分の荷物としての認識がないと、きれいさっぱり忘れてしまうのだろう。

薬の忘れ物は、きっとお客さまが困るだろう。命に関わるかどうかは分からないけれど、何かしら身体のトラブルにつながるのは間違いない。お薬の袋に書かれていた調剤薬局に電話して、お客さまが薬を忘れている事実を伝えてもらうことにした。調剤薬局ならば、患者の個人情報を得ているだろうし、処方したばかりの薬をまるごと忘れていくのは、治療の一環としても困るに違いない。
このときは、どうにかその日のうちにお薬を渡すことができてホッとした。

スマートフォンを忘れる。被ってきた帽子を忘れる。お買い物してきた荷物を忘れる。箱に入ったシュークリームをまるごと忘れる。

なぜひとは、忘れ物をするのだろう?
そういうわたし自身も、お土産にと選んで購入したクッキーを置き忘れてしまったり、傘を忘れてしまったことが何度かある。

わたし自身の感覚としては、その荷物を持っていたこと自体、すっかりと忘れてしまっている。朝雨が降っていたけれど、帰りにはやんでいた。そうなると傘の存在は「邪魔」でしかなくて、忘れてしまうことが多い。いま必要じゃない。なくても、困らない。

同じように、冬場、マフラーを巻いていたとする。お店に入って、マフラーをはずす。暖かい飲み物と、空調の整った空間で身体はあたたまる。そうすると、帰り際にマフラーを巻いて帰るのを忘れてしまうひとが多い。一度外に出て、ビュウッと冷たい風に晒された瞬間に「首元が寒い。あれ? マフラー忘れてる」となるらしく、「忘れ物したんです」とカフェの扉をふたたび開けるということも多い。

その荷物に意識があるかどうか。
たぶん、それだけの理由で忘れ物をしたり、思い出したりするのだろう。

そう考えると「あの夏の忘れ物」は、センチメンタルでもなんでもなく、ずっとそのできごと(ものごと)に意識が向いているのだろう。どうしたってあの人のこと、忘れられないのよ、という感情も「あの人」に意識が向いている以上、忘れることはできないだろう。雨上がりの傘のように、もう必要ない。むしろじゃま、ぐらいまで意識が変わってしまえば持っていたことすら、忘れられるはずだ。

わたしにも、「あの日、あの場所に忘れてしまったもの」はある。意識するな、と普段はわすれていたとしても、折に触れてふと胸を痛めることがある。

今はまだ折りたたみ傘のように、いつでも取り出せる場所でスタンバイしているけれど。雨上がりの傘のように、「じゃまだから、いっそのこと捨てて帰ってしまおう」と邪険にできる日がくるだろうか。

今はまだ、わからない。


最後まで読んでいただきまして、ありがとうござます。 スキやフォローしてくださると、とてもうれしいです。