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まったく予想もしていないできごとに対して、とっさに判断は下せない。

日常生活の中で、思いがけないことが起きたとき、冷静な判断をとるのは難しい。とっさのことに慌てふためいて、普段ならば絶対にとらない行動をしてしまうこともある。

高校生のとき、交通事故にあった。
わたしが、じゃない。わたしの自転車だけが、交通事故にあった。

高校生のころ、わたしは自転車で通学していた。高校からの帰り道には、ほとんど毎日、家から一番近いコンビニに立ち寄っていた。雑誌やら飲み物を観察して、買う日もあれば、そうでない日もあった。

ある日のこと。いつも通り、コンビニの前に自転車を止めて、入店した。雑誌を物色してぺらぺらとめくったり、買おうかどうしようか真剣に迷っていた。イヤホンなんかはしていなかったけれど、かなり集中していたので、外で起きていることには気づいていなかった。なんか、音がしたな。そのくらいにしか。

レジのおばさんに「お姉さんが停めてた自転車、車に轢かれてるで?」
慌てた口調でそう言われ、一瞬、え? と理解できなかった。手に持っていた雑誌はラックに戻して、コンビニの外に出てみた。

すると、そこにはぐしゃぐしゃに潰れた、わたしの自転車が転がっていた。
タイヤは辛うじてかたちを保っていたけれど、タイヤの上部を覆っているカバーの部分や、カマキリの鎌みたいに伸びていたはずのハンドルは、いびつなかたちに変わっていた。

車を運転していたおじいさんと、助手席に乗っていたおばあさんがおろおろしながらも、少し言い争いをしていた。確認が不十分過ぎるだとか、いや、でもあんな場所に自転車があるのは見えなかった……。お互いがお互いを責めているようだった。

「あのー……、その自転車、わたしのなんですけど……」おそるおそる申し出ると、ふたりは、同時にパッとわたしの顔をみた。
「エライすいません、こんなことしてしもて……」
「ホンマにごめんなさいね。注意がおろそかになってたんやね」
ふたりは口ぐちに謝りはじめた。しかし、わたしは「自転車が交通事故にあった」という事実をうまく受け入れられず、ぽかんとしていた。

こういう場合は、どうしたらいいんやろう?

あまり頭が働かず、ぼんやりしていたとき、おばあさんがこう言った。
「このままやと、乗れないし、修理に出さないと」
えっ? こんなぐしゃぐしゃになった自転車、修理してくれるんかなあ? と私は頭の中で考えをぐるぐる巡らせていた。

どうするべきなのか、本当に分からなかった。自分自身が事故にあったなら、警察や救急車を呼ぶ必要もあるだろう。けれど、この場合はどうなるんだろう……?

目の前で起きていることが、どうにもうまく飲み込めないでいた。おじいさんに「自転車、修理に出しに行きましょう。このシール貼ってあるお店で買ったんかな?」

近所の自転車屋さんで購入したため、お店のステッカーが貼られていた。長年乗っていた自転車だから、ステッカーは汚れていたけれど、読み取れないほどではなかった。

「後ろに乗せられるから、ここに自転車乗せて。お店はこの近く?」
おじいさんは手際よく、車のトランク部を開けていた。ぐしゃぐしゃで、ちょうどトランクに収まるくらいにコンパクトになった自転車を、よいしょと持ち上げてしまい込んでいた。

「え、あ、ちょっと待ってください」
私自身は、「修理します」とも、なんとも言っていないのに、急展開やなと思っていた。けれど、おじいさんとおばあさんも、事故をおこしてしまったことに動転して、「修理して、なかったことにしてしまおう」と考えているようだった。

「自転車屋さんの場所が分からないから、案内して。ほら、車のうしろに乗って」
おじいさんと、おばあさんに促されるままに、私は車の後部座席に乗ってしまった。

見ず知らずの人の車に乗ってはいけない。
小学生の頃からずっと言われ続けている注意事項は、ちらりとも顔をのぞかせなかった。

ただ、「私の自転車をどうにかしなあかん」としか、考えられなかった。

おじいさんを案内して、たどり着いた自転車屋さんはその日は定休日だった。

自転車を修理に出すことができないため、一旦自宅へ送ります、と老夫婦から申し出があった。自転車については弁償しますから、と言われた気もするが、お金を受け取った記憶はない。

おじいさんの車に乗せてもらい家に着いた。

ぐしゃぐしゃになっている自転車を見てギョッとしている母にことの詳細を伝えた。
母と老夫婦は、何やら話していたけれど何を話していたかは、覚えていない。おそらく、自転車を弁償しますとか、修理しますといった類のことだろう。

老夫婦がていねいにお辞儀をした後、そっと車を走らせて帰っていった。ぐしゃぐしゃになった自転車を見ながら、私は母に、静かに怒られた。

「なんで知らん人の車に乗ったん? 誘拐されてたかもしれんやろ!」と。

私にとっては、私が小学五年生の誕生日に買ってもらった自転車が交通事故にあってしまって、悲しいというか、どう捉えていいかわからなかった。

たしかに、冷静に判断すれば、ほいほいと自転車に乗ってはいけない。いくら、すっごく優しそうな老夫婦であっても、だ。すべての人を疑え、というわけじゃない。けれど、物事には順序がある。連絡先を交換するとか、コンビニで電話を借りて自宅に電話するなどが妥当な判断だったろう。(当時はまだ、携帯電話がほとんど普及していなかった)

なんか、ちょっとボンヤリして、判断できひんかってん、と私がいうと「まあ、そらそうやろけど……」と、少しあきれていた。

もしも、あの老夫婦が計画的に自転車を事故に合わせていたとしたら。車に乗ってしまった私はどうなっていたのだろう? 殺されていただろうか?

予想もしないことに巻き込まれると、判断がにぶる。なんであんなことしたのだろう? と後になってから首をひねるばかりだ。この先、生きていく中でも、判断を迫られることが起きるかも知れない。けれど、そのときは一度深呼吸しよう。判断を間違えてしまうかも知れないが、少なくともクルマに乗ってはいけないのだ。




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