見出し画像

いってらっしゃいと手をふって

「もう、そろそろ行かないと」
ちらりと腕時計に目線を落とし、父はその時がきたことを告げた。
いつも身につけている、お気に入りの腕時計は鈍い光を放っていた。

「まだ早いでしょ。もう少しくらい、時間あるんじゃない?」
わたしたちはそういって、引き止めようとする。
その言葉が、もう届かないところに父がいることも、わかっている。
わかっているけれど、別れがたくて、引き止める言葉をかけてしまった。

せっかちな性格だからか、あっという間に旅立ちを決めていた。
まだ一緒にいられるよねと、わたしたちの淡い希望なんて、ちっとも気にしていない。

でも、本当はそれで良かったのだろう。
父自身が決めたタイミングで、旅立つことができたのだから。

いってきますと言いながら、父はいつもと同じように靴べらを使って足をするりと革靴に滑り込ませた。
玄関の上がり框で、わたしたちは旅立つ父の背中を見送る。
いってらっしゃいと、頬をぬらして、手をふった。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうござます。 スキやフォローしてくださると、とてもうれしいです。