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はじめから、何もなかったわけじゃない。

「引っ越すのよ、6月にね。ひとりで暮らすのも目が見えなくて不便だし」

その人は、あっけらかんとそう言い放った。けれど、それを決心するまでにはいくつもの葛藤を飲み込んできたにちがいない。

「引っ越すというお宅があるのだけれど、町内会費は集金しなくていいのかしら?」と、町内会の集金担当の方から相談を受けた。5月の、終わりのことだった。

5月から町内会の理事を任されている。集会が禁止されているので、引継ぎもなく、いまいちよく分からないまま仕事がやってくる。

「うーん、引っ越しするんなら会費払う必要ないですよねえ……。とりあえず、退会届を書いてもらわなくっちゃいけないから、話を聞きに行きます」

そういって、引っ越しをされるというお宅を訪ねることになった。何のことはなく、うちの斜め裏のお宅だった。

気難しい旦那さんと、奥さんの二人暮らし。何年も前に、町内会の会費集金担当になり、お伺いしたことがある。そのとき旦那さんに「なんで俺が金を払わないといけないんだ!」と怒鳴られ、すごすごと帰ったことがある。その後、奥さんが会費を持ちつつ、謝りに来られた。

「ごめんねえ。うちの人、癇癪もちでねえ」と困ったように笑っていた。わたしも、「いえ、わたしの父親もそんな感じですから」と答えた。

ウッドデッキに白いプラスチック製のテーブルとチェアがおいてある。汚れている様子はないのだけれど、一度も座っているところは見たことがなかった。

近くに住んでいるものの、ほとんど接点をもつことはなかった。

「去年の秋に、夫も亡くなったからね。私はあんまり目が見えないから一人より、みっちゃんのとこに厄介になるの」

玄関先で話をしていると、みっちゃんと呼ばれる親族の方がお家から出ていらした。おばさんの妹だというみっちゃんに代理で「町内会退会届」を記入してもらっている最中、ぽつぽつとお話しされた。

あの気難しい、癇癪もちの旦那さんは、いつの間にか亡くなられていた。わたしが「気が付かず、すみません」というと「いやねえ。言って回るようなことでもないし、知らせてないんだから」と、またあっけらかんと笑っていた。

「引っ越したらすぐに、この家は取り壊しますので」みっちゃんと呼ばれていた親族の方が、届け出を書き終えてそう言った。

「そうそう。もう、おんぼろだから。台風とかで壊れちゃうんじゃないかって、怖くってね。もう、築50年近いもんね」みっちゃんと顔を見合わせながら、おばさんはうなずく。

すぐに土地を売ってどうのこうの、というわけじゃないらしい。けれど、とにかくすぐ建物は壊すという話だった。

何かお手伝いできることがあれば、言って下さねと言い残し、わたしはその場を去った。

そうして、あっという間に引っ越しし、すこししてから解体業者がやってきた。窓辺には荷物がまだあるように見えたけれど、もう不要なものなのだろう。

7月の終わりから、その家は壊されていった。築50年近い、木造住宅。緑色のペンキが、ところどころ塗られていて、雨の日は不思議な場所からザーザーと水が流れる家。玄関前には、赤い花を咲かせる平べったいサボテンがある家。

住宅の解体は、あっという間に終わってしまった。工期は7月末から8月末、となっていたのに、長い梅雨が明ける前に、終わってしまった。

その場所には、もうなにもない。まだ、雑草すらも生えていない。

はじめてその場所を通った人は、「あ、空き地なんだ」と思うだろう。けれど、そこははじめっから空き地だったわけじゃない。50年近く家が建っていたし、住んでいる人もいた。

わたしがお風呂に入るとき、いつも賑やかな笑い声が聞こえてきたし、テレビでのスポーツ観戦をしているらしい声援も聞こえてきた。

それでも、がらんとした空間だけが広がっている今は、もう、なにもない。特別親しくしていたわけじゃない。けれど、にぎやかな声にほっとしながら湯船につかった日があることは、確かなのだ。






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