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「Q」と「A」。

暗闇の中にいることを知るのは、暗闇以外の場所を経験した者だけ。暗闇しか知らなければ、暗闇にいることすら分からない。

暗闇から逃れるためにランプを求めるわけではなく、暗闇を知るためにランプが必要なのだ。

暗闇という居場所のことを、暗闇は教えてはくれない。

ランプが手に入れば、暗闇がどんな場所なのか分かる。ランプが教えるのではなく、自分で見ることができるからだ。そうすると、次の行動を決めることができる。ランプが決めるのではなく、自分自身で。

だけど、ずっと明るい部屋で過ごしてきたために、暗闇という存在も知らなければ、ランプというものにも出逢ったことがなかった。

正しく言えば、ずっと明るい部屋を与えられてきた。明るい部屋以外の場所を経験したことがなかった。だから、それが明るい部屋だということも知らなかった。ましてや暗闇とランプがどのような存在なのか知る由もなかった。

分かっていることと、分かっていないことがある。

分かっているのは、ここはどういう場所なのか? という「疑問=Question」。
分かっていないのは、ここはこういう場所である! という「答え=Answer」。

「A」を知らず、「Q」を知っている。
「A」を知るために、「Q」を活用する。
「暗闇」を知るために、「ランプ」を掲げる。

「そんなことも知らないの?」という言い方をする人がいる。「A」を知っていることが当たり前だというニュアンスだが、「Qは知ってるよ」と答えるといい。「Q」こそが歴史を貫いてきたのだ。

なぜなら、「A」は一つではないし、今日の「A」が明日の「A」であるとは限らないし、相手次第で「A」を変えることなど誰もがやっている。誰かに教えてもらった「A」を知っていることに、それほど価値があるとは思えない(「A」を自分でゼロから見つけ出した、というのなら話は別だが)。

「こんなQも知らないの?」という言い方を耳にしないのは、なぜなのだろう? 「Q」を知っていることには「A」を知ること以上の意味があるし、それを探究することにも価値がある。堂々と自分の「Q」を見せ合う社会は素晴らしいものになると想像する。

「生きるって何?」という「Q」を、ある人たちは保持し続けている。自然なかたちで、そうなった。どうしても解き明かしたい。自分だけではなく友人や弟や後輩や将来の自分の子どものために。

「生きるって〇〇〇だ!」という「A」を、別のある人たちは保持し続けている。先生が言っていたから、本に書いてあったから、記憶した。これが試験問題に出ても答えられる。永遠に「生きるって〇〇〇だ!」と答えられる。

ある人は、「生きるって何?」が人生で唯一、自分から生み出した「Q」だったが、でも、よくよく観察してみると、すでにたくさんの人が同じ「Q」を表していた。同じことを考える人がいるんだな、と少し嬉しくなった。「A」が分かったわけではないが、何かが通じ合った気がした。

ある人は、「生きるって〇〇〇だ!」という「A」が自分のオリジナルでもなく、人口に膾炙されていることを喜んだ。皆と同じものを自分も持つことができた、と。極論すれば、自分がいなくても「生きるって〇〇〇だ!」という「A」が厳然と存在していることなど考えもせず、自分は「A」に近づいたのだと感動した。

「実は、子どもの頃の『Q』をずっと持ち続けているんです」。老人がそう言った。なぜか安心した。その歳になってもまだ解明できない「Q」を追い求めている。自分なんか、まだまだ半分にも満たない年齢で、安易な「A」を詰め込む必要はないんだなと少し余裕が生まれた。老人は、そこまで考えることのできる優しい人だった。

「子どもの頃から『A』をずっと忘れずにいるんです」。別の老人がそう言った。10歳で教えられた「A」が80歳の「A」と同じなのだった。自分を誇りたいこの老人の言い方は、聞く者を一つのことに縛り付ける力を持っていた。

二人に同じ質問をした。「あなたにとって『Q』はどんなものですか?」
「Q」を持ち続けてきた老人は、「暗闇を照らすランプ」と答えた。
「A」を持ち続けてきた老人は、「まったく不要なもの」と答えた。

二人に同じ質問をした。「あなたにとって『A』はどんなものですか?」
「Q」を持ち続けてきた老人は、「ランプが見せてくれたさまざまな風景」と答えた。
「A」を持ち続けてきた老人は、「唯一で絶対的なお守り」と答えた。

「Q」を持ち続けてきた老人は、暗闇も、いろんな明るい部屋も、知っていた。
「A」を持ち続けてきた老人は、明るい部屋しか経験しなかったけれど、それが明るい部屋だとは知らなかった。

「Q」と「A」は、ずっと一緒に「私」という部屋にいる。


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