見出し画像

「希望」や「目標」は最高地点ではなかった。

大学を卒業する年に、人並みに就職活動をした。
希望の企業もあった。作文までは通過したが面接で落ちた。
それから10年以上も年月が過ぎたとき、ふっと、あの面接で落ちたときのことを振り返って、「よかったのかもしれない」と思った。自分の仕事に充実感を覚えていたからだ。「自分には、なくてはならない仕事だ」と感じられることが何よりも嬉しかった。
自分の希望したことは、そのときの自分の考える最高地点かもしれないけれど、時が経てばそこをはるかに超える地点があるんだな。そう確信した。

目標も同じだった。朝の通勤時にそのことを知らされた。
駅を出て職場へ急ぐ人たちが大勢いて、その中を逆に駅へ向かうおばあさんがいた。人波を避けて歩くことなど、おばあさんにはとてもむずかしいだろうと姿を見ただけで分かった。
と、おばあさんがよろめいてしゃがんだ。狭い歩道。急ぐ人たちは、よろめかれて自分が倒されてもかなわない、とばかりに足早に避けて通過していく。
10人も過ぎただろうか、やっと一人の女性が抱き起した。
遠くでそれを見ながら思った。
急ぐサラリーマンの気持ちはよく分かる。遅刻すればペナルティがあるのだろう。自分のことは自分で守れよ、と内心でののしることで急ぐ自分を正当化しているのかもしれない。経験ある者としての想像だ。
だけど、遅刻しませんでした、と目標を達成した自分が、おそらく一日中気分が晴れない。悪いことをしたわけではない、という自己弁護がむなしい。
「目標を達成することが最高なことではない」という、教えられてきたこととは逆のことを発見してしまった。そういうことが多々ある。
予想外とは自分のはかりごとを超えるということ。希望や目標は絶対的なものではない、と考えることにした。そういう仮説で検証実験をしてみようと思った。間違っていたら自分に「ごめんなさい」だ。

もちろん、希望や目標が、自分の技術を高めたり、もうひと踏ん張りするときのエネルギーになることは知っている。
けれど、希望が達成されたら最高地点に立ったと勘違いするのはマイナスにしかならない。大事なことではあるけれど、それよりも優先すべきことがたくさんある。一人で考えた最高地点は他者という存在が現れた時点でどんどん下がっていくものだ。
そんなの当り前よ、と子育てを経験したお母さんたちは知っている。大事な自分以上に大事なことがある。大事な希望や目標以上のものがある。そのことがありがたいことだと実感している。
予想外は豊かなことだ。

幸いなことに、ごめんなさい、と言わなくてもいい日が続いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?