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「私」がオリジナルである理由。

「モノがある、とはどういう状態か?」
「ある」は「ある」に決まってるだろ! という話を、顕微鏡で見たり、分解して眺めたり、液体に付け込んでみる。
すると、自分勝手に見ていたものと違って見えてくる。

「モノがない」ではないのが「モノがある」で、「モノがある」は「モノがない」によって「モノがある」になる。言葉としては変な感じだが、「ない」の存在によって「ある」は存在するのだ。

「ない」と思っていてもそこにも物質はある。空中にも見えていないだけで物質が存在する。
ただ、ここで言う「ある」と「ない」の関係は、特定の存在における意義あるいは意味を少し俯瞰的に捉えようというもの。

例えば、「パソコンがある」と言えるのは「パソコンがない」という状態が存在することによって「ここにパソコンがある」と言える。パソコンの隣の空間は「パソコンがない状態」であり、この部屋を出れば「パソコンがない状態」であり、山奥や海中も「パソコンがない状態」。つまり、「パソコンがある」と言えるのは「パソコンがない」という状態が存在するからだ。
仮に、世の中という空間がすべてパソコンで出来ていたらパソコンがある状態を特定することができなくなる。
同じように、もし「私」が密集して地球が出来上がっていたら「私」はどこにもいない。すべてが「私」だったら「私」という特別な存在はなくなってしまう。「私の存在」がなくなるなんておかしな状況で、「私」と言えることがいかに素晴らしいか。他には「私」がいないから素晴らしいのだ。

「私がいる」は「ここ以外に私はいない」によって「ここに私がいる」を成立させている。
だから、最初の問題の答えは、「モノがある」とは「モノがない」によって成立している状態、と言える。

こんなにしつこく何を考えたいのかというと、「私」という存在がいかに貴重であるかを解き明かしたいからだ。
「私」はここに一人しかいない、それは他がすべて「他人」だから。逆に言えば、他人という存在がなかったらそれと区別して「私」と呼ぶ必要もない。「私」と呼べない私はナニモノだろう?
「ない」があるから「ある」がある。
「私がない状態(他人がある状態)」があるから「私がある状態」がある。

これをベースに、もっと考える。
「あの人のようなことは私にはできない」から「あの人とは違うことが私にはできる」のだ。

もっともっと考える。
「私以外の人の人生は私には送れない」から「私の人生という私だけのオリジナリティ」があるのだ。

もっと詳細に考える。
「私が仕事や子育てで苦労していることは他の人には経験できない私だけのオリジナリティ」なのだ。
「私が喜んでいる小さな出来事は他の人には経験できない私だけのオリジナリティ」なのだ。
「私は私という経験を世の中で活かしていけるオリジナルな存在」なのだ。

最初の問題と重ねてみる。
「私がいるとは、どういう状態か?」
私は私だけの経験をしていて、他の人は私にはできないことを私に代わって経験してくれている存在。
だから、他人は、優劣を比較する対象ではなく、むしろ「我を際立たせてくれる存在」でありながら、同時に、私には選択できなかった人生を見せてくれる「学ぶべき存在」でもある。
私というオリジナルな存在は、他人という私ではないものによって、私として成立させられている。
それなのに私は、好きとか嫌いという感情を他人にくっつけて、私を存在させている関係性をまともに見えなくしている。


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