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「ちっぽけで唯一無二」を知る装置。

10年以上経つかもしれない。
『宇宙の地図』という本を手にしたとき、衝撃だった。
「自分を見るって、こうやって自分の立ち位置を動かしていくのか」と思った。
今は、なぜか手元にない。けれど、どんな構成だったのか、記憶の断片の中で、おおよそのところは覚えている。

人が写っている一枚の写真がある。
次の写真はその人を上空から撮っている。
その次はカメラはもっと遠くから写している。
ページを繰るたびに人どころかその場所さえ分からなくなるほど空高くカメラは移動する。
もはや上空とは呼べない宇宙から最初の場所を撮り続ける。
地球が豆粒くらいになる。
もっと上空へ。
銀河系も小さくなる。
そして、ついには、宇宙の外側から宇宙を見ている写真。
もちろんそこだけは空想の世界だ。宇宙の端っこは気になるけれど、宇宙の外へ出て撮った写真はない。ちゃんとそのようなお断りが記されていた。

自分を取り巻く世界はそこまで広いということだ。
日頃は鏡を見て自分を客観的に眺めたりするくらいで、立ち位置は動いていない。宇宙のようなところから自分を捉え直してみるなんてことはない。
言うまでもなく、この本が見せてくれる世界の中で人間なんて見えやしない。「なんでそんな本を?」ではなく、「だから」なのだ。
いつもは自分のことで頭がいっぱいになって破裂しそうだ、という人は少なくない。だって面倒なことや、やりたいことが溢れているから。友人関係、親子関係、夫婦関係、職場関係、どれも避けては通れないし、そのうえ、もてたい、稼ぎたい、遊びたい、有名になりたい、あれが欲しいこれが欲しい……。ほぼほぼみんな似たり寄ったりの頭の中身をしている。
そこへ、「自分のことを自分の内側からだけじゃなくて外側から眺めてみては?」と言ってくれるのが『宇宙の地図』だった。
「どんなにいろんな欲望を詰め込んでみても、この広い環境の中では屁でもないよ。おまえがいることは承知しているけれど、おまえは小さな存在だよ」と無言で言っていた。
じゃあ、意味のない存在なのかというと、そうではない。「ちっぽけで取るに足りない唯一無二」なのだ。見えないけれど確実にこの写真の中にいるのだ、私は。
みんながそうだ。「ちっぽけで取るに足りない唯一無二」の集合体がここに写っている。そう思った。
この写真の中にいる自分を(見えないけれど)眺めてみると、友人関係も、親子関係も、夫婦関係も、職場関係も、まあぼちぼちでいきましょうや。過度な期待をされてもできないことはできません、まあご自由に期待してください。そんな感じに脳神経がほぐれた。
現代社会が常に要求してくる自分の存在証明も、そんなことする必要はないかもですよ、とこの本を見ている間は思える。それほど、宇宙という私たちがいる世界は何よりも大きい。

「強迫観念とか同調圧力とか人間世界で起こっているものでござんすよね? 小さな太陽系よりもさらに小さな話でございましょ? あなたがそこにいる、ということがこの宇宙の『今』なのですから、それ以上必要なことはあまりないかと……。お気づきでないなら、あえて申しておきますが、あなた、あなたは間違いなく宇宙の一部です」。
本の中からそう聞こえた気がしたのは、宇宙だけに「空耳」だったのか……?

自分の小ささを知らされるのは自信をなくしたり劣等感を抱くようで嫌いだ、という人もいる。それこそが“ひずみ”の元。
小さくていいじゃない。こんなに広い世界と比べられるような大きな奴など一人もいないのだから。
しかも、小ささを知るのって気持ちが楽になる。その分、余裕も生まれてくる。
「大きいことはいいことだ!」とチョコレートに言われなくても、身の丈以上に対する憧れは生きる本能のようなものかもしれない。
けれど、「ぜったいに適わない」というほど大きなもの、自分の小ささを痛感させてくれるもの、そんな存在に遭遇すると、自分の思考が砕け散る。それが嬉しい。ゼロに戻されたようで、ものすごくリフレッシュできる。
すると、それまで必死でやってきた方法も変えてしまえ、と思えるし、まったく違うことを目指してみようかな、とも思える。自分一人ではなかなか起こらない変化だ。
小さな自分だと言われて打ちのめされるのではなく、小さな自分だから自由なんだなと大きく構えられる。
古代から星々を見上げてきたのは、ちっぽけで唯一無二の自分を知るためだったのだ。
天文学。なんと伸びやかな学問だろう。

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