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「私の命」という誤認

「私の命」「あなたの命」と言う。よくよく考えると、とてもおかしい。
この言い方では、先に「私」や「あなた」が存在していて、それが「命」を所有しているかのようだ。じゃあ、「私」や「あなた」はどこから来たの?
そんな違和感を軽々と超えてみせる慧眼に出逢った。
公衆衛生学者で痴呆老人の研究者でもある大井玄さんは、「命が『私』している」と言う。
そうだ、ほんとうは、これなのだ! 命が生まれ、それが初めて自転車に乗れた小学一年生の「私」だったり、食事ものどを通らないほど落ち込んでいた昨日の「私」だったりするのだ。だから、命は一つでも、その表れ方は多種多様。毎秒毎の「私」がいると言ってもいい。
それなのに、強欲な「私」や名声を欲しがる「私」が命を所有するなど、誤認も甚だしい。
 
このように、ありえないことを人間は平気で口にする。その最たるものが「地球を優しく」。生命誌研究者の中村桂子さんは「おかしい」と指摘する。
「エコな暮らしをして地球に優しい人間になろう!」などと喧伝して、それを信じ切っているけれど、地球に守られているのは私たちで、命と私の関係と同じように次元の認識が間違っている。地球が守っているスケール感はとても人間の優しさが太刀打ちできるようなレベルではない。
言葉で言えるからといって、それが空想や幻想でないという保証はない。言葉はそれほどに幻惑させる道具でもある。
 
ずいぶん前に、「なぜ死んではいけないの?」と問いかけた若者がいて、多くの人がこれに答えようと、さまざまなメッセージを出した。
けれど、おそらくどのメッセージも問いかけた若者には響いていなかったのではないか。
死んではいけない理由を必死に届けようとしたそれ自体は、若者に誤ってほしくない気持ちからだとは理解できるけれど、若者が投げかけたことは死んではいけない理由探しなのではなく、死というものを自分で選択できるのに世の中がそれを阻止するのはなぜなのか? という意味だったのではないか。もし、親や友人が悲しむから、神に対する冒涜だから、といったことが彼の求めていた理由だとしたら、そのために生きることになってしまう。
本人自身も気づいていないところでは、生きる理由への模索がこの問いかけの奥深くにはあるかもしれない。けれど、おそらく彼は命と自己の存在の関係が不明瞭で苦しくなっていたのだと思われる。だから「誰か教えて」と、不特定多数に向けて発した。そう捉えるのが最も自然だと思った。
「そんなの当たり前じゃないか」「わざわざ聞くことじゃないだろ」と言う人は少なくなかったはずだ。でも、その当たり前のことを疑問に思うほど真剣に理解したかったのだ。だから、究極のテーマに関することのようだと世の中が感じ取って慌てふためいた。逆に言えば、それほどに社会は答えを持ち合わせていなかった。もしくは、彼の納得する答えを持っている人が答えなかったか。

この「なぜ死んではいけないの?」に対する答えこそ、「命が『私』しているから」ではないか。「私の命」としか見えていなかった社会には、死ぬことができるのに死んではいけない理由は見つからない。
私に命を所有できる理由などない。「命としての私」があるだけだ。そのことが理解されていけば死というものへの捉え方が違ってくる。死んではいけない理由を頭で考えて死を阻止しようとするのはむずかしい。現に「死にたいんです」と言ってあちこちの相談窓口に電話をかけた人が、「死んではいけないよ。みんなが悲しむよ」という紋切り型の説得しか聞けなかったと言っていた。
「死にたい」と究極のところまで追い詰められた人に納得できる答えを用意できない社会は誰を救えるのだろうか。
命が「私」しているところに立ち直して日常の言葉から見直していく以外にないと感じている。

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