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近藤麻理恵さんの意見に関するメモ

はじめに

私は近藤麻理恵さんの意見にとても共感を覚えているのですが、一般によく知られた人物であるとはいえ、その意見をよく理解して「こんまり」を覚えている人たちは少ないように感じています。
原因はさまざまあると思いますが、一つには近藤麻理恵さんが話す要素の中にスピリチュアルな話が出てくるところだと思います。近藤麻理恵さんはそこの部分に説明を加えることをしない方なので片づけをやったことがない人には理解しづらいわけです。
したがって、もしその部分を明確に説明できたなら、近藤麻理恵さんのファンがもっと多くなるのではないか、そう考えました。

そのためにはどうすればいいでしょう。
まず私は近藤麻理恵さんの思想の要約は省いて、その胡散臭がられる部分の要約を示し、続いてそこに説明を加えます。そして近藤麻理恵さんの意見を知りながら実践しない人とそれを実践する人について述べます。それらを確認した上でこんまりメソッドの価値について述べます。そして最後に近藤麻理恵さんの思想と幸福の関係についてまとめます。

詳しい科学的な研究結果や精密な議論は私にはできないのですが、それらは大きな機関に任せて、ここでは簡単に近藤麻理恵さんの思想を誤解なく説明できるようにしたいと考えます。
至らない点が多いと思いますがお付き合いいただけると、そしてこんまりメソッドの実践者が増えると、幸いです。

近藤麻理恵さんが誤解されるのはなぜか

近藤麻理恵さんはいわずとも知れた片づけコンサルタントですが、彼女の思想にはそれまでとは異なる新しさがありました。
まず片づけは一気に完全にやり終えなくてはいけない。そしてもの別に片づけなくてはいけない。さらに実際に触ってときめくかどうかで残すものを判断する。そしてそれから残したものの置く位置を決める。
この中でも一番特徴的なのは「残すものを実際に触ってときめくかどうかで決める」というところでしょう。おそらく多くの人が、こんまり、ときめく、片づけで記憶していると思います。ときめくという語に新たな役割を担わせた点でもこれは評価されてしかるべきなのですが、この部分がわかりづらいことで、近藤麻理恵さんが胡散臭がられているのもまた事実です。しかしここを分解してひも解いていけば、こんまりメソッドに対する抵抗感が下がると私は考えます。

では、なぜ人は胡散臭いと感じるのでしょうか。単なる感情ともいえる部分もあるのですが、人は多くの情報をひとつかみに把握することができるのも周知の事実です。詳しい構造については、大きな機関の研究に任せるとして、ここを分解してみましょう。
胡散臭いは感情としては、新しい現象、思想への驚きでもあり、信じることへのためらいであり、それがひどくなれば嫌悪にもなります。簡単にしてしまえば、いろいろな情報を総合した中での一種の留保であり、拒否反応です。それが起こるのはまず起こったことが新しいからであり、自分の信じていることからかけ離れているからです。信じるというのはかなり感覚的な部分があり、簡単にこれからこれといった具合に変えられるものではありません。したがって、胡散臭いと感じるときには思った以上にそのものに対して距離が開くわけです。

ここまで見た上で、近藤麻理恵さんのメソッドに対する胡散臭さを分解してみましょう。
まず近藤麻理恵さんのときめくという使い方はかなり新しいです。ときめくにはこんまりメソッド的な意味が含まれていたわけですが、それは眠っていたわけです。ときめくは少女マンガとか雑誌などが使うようなきらきらしたイメージがありますが、判断に使うようなイメージはありませんでした。それを近藤麻理恵さんは思想的に使い始めたわけです。これは新しいといえます。
それと同時にときめくは状態も表し、感覚です。したがって、ときめいたことがない人はときめくがわからないわけです。近藤麻理恵さんもこのことを理解していて、そのための方法論がこんまりメソッドなのですが、彼女はときめくについては明確に説明を加えることをしません。これは彼女が実践の人だからであって、読者や片づけをしたい人は実際にやってみなくてはいけません。しかしこれでは片づけをしたいけど実行力がなくてこんまりメソッドを否定的に捉えている人には、近藤麻理恵さんの意見は届かないわけです。ここではこれを変えていきたいという野心を持っています。
それができているかは読者のみなさんの判断に任せるとして、したがってまず近藤麻理恵さんの思想は新しかったということ、そして感覚に関することなのでやってみなくてはわからないということ、この二点が近藤麻理恵さんを胡散臭く見えさせている要因だということを確認しておきましょう。

最後にときめくという語を解説して項目を変えましょう。
ときめくは驚き+喜び+愛+その他で成り立つ感情であり、状態です。ときめいたとき人はものにこんな面があったのかと驚きます。そしてそのものにこんなに愛情を抱いているのかとさらに驚きます。感情の動きはそれ自体完全性の証拠であり、完全性を感じることは喜びになるので、ときめくことは喜びです。また、ときめくという語は期待も表します。したがって未来に通じています。幸福のイメージを抱いているとき人はすでに幸福なのですが、ときめくとき人は未来に幸福のイメージを持っていて、そのためにときめくには幸福がつながるわけです。近藤麻理恵さんもときめくためには未来のイメージを明確にすることが必要だというのもそのためです。
上記でときめくについては説明されたことにします。

実践する人としない人

たとえ近藤麻理恵さんの本を読んだとしても読むだけで終わってしまう人と実際に実践する人がいます。これはなぜなのでしょう。いろいろな事情はあると思いますが、ここでは議論を進めていくためにモデルをつくっていこうと思います。一人は近藤麻理恵さんの本を読んで実際に片づけをし、人生を変えているという人、もう一人はたしかに近藤麻理恵さんの本は読んで納得もしたのだけれど実行には移さない人です。

近藤麻理恵さんの本を読んで実際に片づけをして人生を変える人というのは、どんな人でしょうか。まずいまのケースでは本を読んでなので本を読むことができなくてはいけません。読解力の最小限を考えるにしても、近藤麻理恵さんの著作はかなり簡単な部類だと思います。というのも、こんまりメソッドは絵本にもなっているからです。いっていることはほぼ同じです。いつでも変わりません。したがって、本が読めるという人はだれでも近藤麻理恵さんの本の内容自体は一応読むことができると考えましょう。となれば、この時点ではほとんど特別な力を持っているわけではないと考えていいでしょう。
次に考えなくてはいけないのは、近藤麻理恵さんの意見にある程度賛同しなくてはいけないという点です。おもしろ半分でやるのではなく、こんまりメソッドを信じなくてはいけないのです。なぜなら、片づけというのは簡単にはいかないからです。それをやり遂げて人生を変えるのですから、半ば宗教のごとく信じていなくてはいけません。もっといえば、こんまりメソッドは基本的にはやらないとわからないのですから、そういう意味でも信じる必要があります。
したがって以上をまとめてつなげると、この人は、近藤麻理恵さんの本をおもしろく好意的に読むわけです。そして近藤麻理恵さんの言葉に促されて、正しい手順で片づけを始めます。正しい手順でやるからこそより信じる気持ちが強くなり、より成功できます。そして自然と自分を信じることもできるようになり、人生を変えていくわけです。
ここは私見なのですが、片づけは学校で教えるべきだと思います。なぜなら自分の生活を営んでいくのはだれでも必要だからです。そしていま学校では片づけは教えてくれません。それゆえに片づけコンサルタントが成り立つわけなのですが、近藤麻理恵さんもそこまで片づけが浸透すればよしとしてくれそうな気がします。片づけをするかしないかはその人次第ですが、知らないとすることもしないこともできません。

それでは逆に、近藤麻理恵さんの本を読んで納得したのだけれどそれを実行には移さない人とはどんな人でしょうか。まず、本を読めるのは上と同じです。次に、どう読むかですが、ここでは感動するまではしなかったと考えてみましょう。なぜなら、感動がなければすぐに忘れてしまうし、ただの情報となってしまうからです。
ここも私見ですが、人が行動を変える場合この感動が必要だと思います。感動が薄い人というのは頑固者になってしまうでしょう。いいか悪いのかは別にして、変化には感動が必要でしょう。
話を戻すと、この人は実際に行動に移さないからこそさらに近藤麻理恵さんの意見を信じることができなくなり、最終的には忘れてしまうでしょう。
以上をまとめてつなげると、この人はまず近藤麻理恵さんの本を読みます。しかし感動が起こることがなく、読んですぐ本を売るなりしてこんまりメソッドを忘れてしまいます。そして理解はしているのだけれど、結局どこかで信用できなくて、片づけを実行はしないで日々を過ごしていきます。

どちらがいいとは決められませんが、一ついえることは、近藤麻理恵さんの著作の力、感動する力が成功には不可欠だということです。理解するだけでなく感動が起こらないと行動には移せないからです。

こんまりメソッドの価値

こんまりメソッドはわかりやすくまとまったとても優秀な方法論です。これが知識としてだけではなく身についたものとして残っていってほしいと私は思っています。ここでこの方法論の価値を考えてみるのはむだではないでしょう。
こんまりメソッドの特徴は覚えやすいこと、どんなコンテンツに移行しようとも変わらずにいるということ、実際に実行に移してみると効果がすごいことなどがあります。逆に弱点はわかりやすいがゆえにもう新しさが薄れてしまっていること、実行に移さなければ理解されないことなどがあります。
ここでこんまりメソッドの初見では気になってしまう点を細かく分解してみましょう。そうすることで弱点は少なく、利点はもっと多くなるはずです。

まず、なぜ実際にものに触れなければいけないのかです。なぜ見るだけではうまくいかないのでしょうか。一つには触れた方が圧倒的に情報量が多いことがあげられます。頭の中の情報量ではなくて、実際に浴びる情報量という意味です。私たちは意外とものを見ているようで頭の中のものの印象を見ていることが多いです。頭の中の印象では残りかすのようなもので、新しさがないため感動しづらいです。したがって残すか残さないかを決めることができないわけです。さらに触るという行為は愛情と深い関係にあります。嫌悪であれば触らないからです。したがって触ることによってときめきを感じやすくなるわけです。もっというと、体を動かす量が圧倒的に多いということがあげられます。片づけは作業なのですから、体を動かすことが絶対に必要です。そのためすべてのものを一旦移動させた後触って判断させるわけです。

続いてなぜものにまで感謝して捨てるのかです。近藤麻理恵さんの意見でもっともわかりづらいのがものへの敬意だと思います。そしてこここそスピリチュアルとして敬遠される部分であり、慎重に扱い、なおかつうまく解きほぐして、こんまりメソッドを身につける人を増やすためには必要なところです。
まずものには少なからず愛着を抱いているのが人だと思います。何も愛着がなければ、身につけたり使うこともなくただ景色となるか忘れ去られてしまうでしょう。ということは、ものは大前提として所有物についていっているのですから、自分のものということになります。したがってものへの愛情は過去の自分への愛情へとつながります。そして片づけを通して未来といまの自分へと関わることで、自信へとつながります。なぜなら自分への愛を気づき、自分への愛は信頼へと変わり、さらに選択できたということに対して自信もつくからです。そして自分のもの、しかもときめいたものへの愛は自分に対する愛につながり、それへの敬意は自分への敬意につながるわけです。つまるところ、そんなわけで近藤麻理恵さんはものを大切に扱うのだと考えられます。

最後に、なぜ不思議なことが片づけをする中で起こるのかです。これはもはややってもらうしかないともいえるのですが、それではこの文章の意味がないので、少し詳しく見ていきましょう。
不思議というのは一つの理由のわからない現象なのですが、そういう出来事は心に残りやすいです。したがって片づけではいろいろなことが起こるわけですが、その中でも心に残ったのが不思議な出来事だったということがいえます。つまり片づけには記憶に残らずともたくさんの出来事が起こってしまうということです。
さらに感動、行動、変化という現象が次々に起こる中で人は信じていくからです。そして信心というのは不思議なことにことさら居場所を与えます。したがってこんまりメソッドはそうした現象を含みやすい方法論なわけです。だからうそとかではなく、そのことを気に留めてしまうくらいの状態まで精神を持っていけるということでしょう。
ここがたしかに胡散臭いですが、近藤麻理恵さんがこのようなことをいったりするのはおそらく片づけに興味を持って、感動して、実際に行動に移してもらうためなんだと私は考えています。

こんまりメソッドは実際に身につけてこそ効果が出る方法論であり、だからこそ真実であると私は思います。ただわかりやすいものというのは真実に触れてはいても真実ではないと思うからです。

近藤麻理恵さんの思想と幸福

近藤麻理恵さんの思想は実践に根ざしたものであり、幸福を目指していると本人も明言しています。したがってこんまりメソッドはただ片づけの方法論ではなしに、片づけを必要としている人に対する幸福になる方法でもあるわけです。

ここでは幸福に着目しながら、近藤麻理恵さんの思想の成果ともいえるこんまりメソッドを改めて見てみましょう。
まず捨てるを最初に終わらせるです。これは部屋のキャパシティが一定であるともいえるわけですが、人が行える行動には際限があるともいいかえられます。つまり過去に縛られたまま未来のことを思い描くことはできないということです。そして人がなりたい未来を思い描くいまはとても幸福なので、さらにいうといまとは過去なので、ときめく生活が送れるようになるわけです。ときめく心にときめかない心は入ってこないからです。

次はもの別にしかも順番通りに片づけるです。これはいかにも作業法的な言葉ですが、このもの別というのは置いておくとして、こんまりメソッドの順番というのは考えられているというか真実の通りになっているというか、いい順番になっています。つまりまず服をやるのは服は流行があったり体型変化があったりしてときめかなくなることが多いからです。そしてそれだけ旬の短いものともいえるわけです。いいかえると変化していく部分のものたちです。次にある本というのも本自体を考えてみると変わっていくものです。考えてみれば、いまの言葉と昔の言葉ではだいぶ違いますし、その中身の思想は変わらないにしても読みたい本、言葉は変わるはずです。変わらない本というのは本当にわずかなものしかないです。こうして見ていけば、最後に回されている思い出品は私たちの変わりにくい部分に関わっているといえるでしょう。それだけに難易度は高いのはここまで読んでくれた方はおわかりになるはずです。つまり変わりやすい部分からときめくものを残していって最後に変わりにくい部分を片づけるという順番になっています。幸福になるには何が必要かわかってもらえるように訓練をしてくれているそんな気が私はします。

次は残したものの定位置を決めるです。ときめくものを残したらそれをどこに戻すか決めるというのは整理にとても役立つことのように思います。しかしそれだけでなく、ときめくものを忘れない、大事にするという意味でも役に立ちます。ときめくものだけに囲まれている時点で幸せに違いないのですが、それらを忘れずにいるというのはとても重要です。記憶の理論に場所の理論というのがありますが記憶と場所にはとても強い関係があります。私たちは現実には変わりやすいわけですが、ものたちは比較的動じずにそこにいてくれます。私たちに幸福を知らせてくれるわけです。

最後にこんまりメソッドはリバウンドゼロといわれています。つまりは悪いように戻らないという意味です。私たちは変わりやすいともに変わらない部分を持っています。変わらない部分こそ思想であり、圧倒的な個性です。近藤麻理恵さんはそこまで行った部屋のことを芸術だと表現しています。芸術とは何なのかという議論はここではなしにして、結びとしていえば、私たちは自分という人生をさまざまもの、つまりそれは過去の自分ですが、に囲まれて暮らしています。そしてそれは一つの技術であり、技術は力です。それは生きる力であり、その人しか持っていない力です。だからこそ近藤麻理恵さんは片づけを神聖視するのであって、それをスピリチュアルとして片づけてしまうのは惜しい気がします。

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