絵本をよむこと、語ること


桜が咲くころ、おはなし会のよみ手を務めた。子どもたちの前でよみ語りをするのは、緊急事態宣言発令後はじめてのことだ。3月にしては強い日差しの照りつける屋外で、参加してくれた子どもたちやおうちの方と一緒に、マスクを着けたまま手遊び歌や参加型の絵本を楽しんだ。絵本をとおして言葉をぽんぽんやりとりする心地よい時間はあっという間に過ぎ、満腹感に近い何かでいっぱいになった。私は、この時間が何よりも好きだ。おはなし会という場は、とても不思議で、よみ手と聴き手と絵本がうまく噛み合った時、自然に場の空気が動き出す。毎回うまくいくわけではないが、集中して絵本の世界にぽーんと入り込んでいる瞬間は何物にも代えがたい。

私は学生時代から絵本の「よみ語り」をしている。大学の附属幼稚園で週に1回の文庫活動をしていたことがきっかけだ。文庫活動は、地域の子どものために図書を収集し、貸出サービスをすることを活動の軸にしている。所属していた文庫は、1990年代に設立された研究的視点を持つ文庫で、これまでのスタッフが蓄積してきた理論を集まった学生が実践していく場となっていた。子どもたちと一緒によんだ絵本はExcelファイルに記録した。私自身も、こわい昔話絵本をテーマに幼稚園児と何度も絵本をよみあった。学生たちは、文庫の子どもたちに周波数を合わせるうちに、いつの間にか絵本への眼と感度は研ぎ澄まされる。誰に習うでもなく、子どもたちから自然に学んでいたのだ。たいていの学生は、文庫で子ども観・絵本観が変わり、おはなし会の時間を即興演奏のように楽しんだ。そして、文庫活動を学生時代の思い出に留め、子ども関係の業界などに就職していく。しかし、私の熱量は、幼稚園文庫に片足を突っ込んだだけには留まらず、大学院に進学させた。講義も聴いていたが、半分くらいは文庫のことを考えていた。貸出傾向や選書会議のこと、運営方針に学生への対応と何かしら考えることはあった。この活動に首まで漬かっていたのだ。それもこれも、先輩たちが取り組んでいる受容研究と呼ばれるジャンルや、子どもと本をつなぐ仕事を意気に感じ、自分も後に続きたいと思ったからだ。好きが高じて、私は職業としても司書を選び、ますます熱を注いでいった。しかしながら、文庫という子どもの本の現場で得たものは、単なる経験の積み重ねとしてではなく、私のなかで血肉になっている。

「よみ語り」は、一般的には「読み聞かせ」という言葉で表現される場合が多い。しかし、20代の頃から私はその言葉を使っていない。なぜなら、元々は昭和時代の学校現場で「朝読として教師が生徒に読み聞かせる」という取り組みから生まれた言葉だからだ。子どもと絵本をよむ際の表現にそぐわないことから、絵本学会(1997年設立)においても使わない方向性になった。しかし、四半世紀を経た現在も、最初に一般に流通した「読み聞かせ」という言葉は残っている。言葉に付随する「上から下へ」という大人と子どもの関係性は、耳にするたびに違和感が生じる。英語で「share books」と説明するほうが余程分かりやすい。私は、自分の取り組んでいる活動に自覚的にありたいという思いから「よみ語り」「よみあい」と表現している。NPOブックスタートでは、赤ちゃんにとっての絵本体験を「読むこと(read books)とはまったく別の体験。絵本をひらくことで広がる豊かな時間を、まわりの人と共にすること(share books)」であると紹介している。この考え方は、乳幼児だけでなくもう少し上の年代の子どもたちの絵本体験にも共通しているといえるだろう。

所属していた文庫では、漢字表記の「読む」はreadの意味なので、代わりに「よむ」と平仮名表記していた。よみ手は聴き手の子どもたちと物語をシェアしているという意味に加えて「絵を一緒によむ」という意味を表したいからである。言葉にすると難しいようだが、絵本は「よんでー。」と場に絵本を持ってきた子どもが自由によみとるものだということだ。同じ本を同じ子どもとよんだとしても、即興演奏のように、その都度よみとり方は変わってくる。よみ手や、聴き手の子どもたちが変われば、発見していくものも、発語もまた違ってくる。しかし、繰り返し現場での時間を過ごすうちに、1冊の絵本のよみあいに共通している部分も見えてくる。子どもたちの受容の仕方をよみ取ることができてはじめて、その絵本を熟知しているといえるだろう。

絵本のよみ語りはまず、よみ手自身が絵本の世界をどう捉えているのか認識するところからはじまる。そして、どのようによむのか照準を合わせる。昔話絵本の場合、よみ手は舞台で言うところの黒子になり、淡々と忠実にお話を伝えることに徹する。よみ手のよみ方によってフィルターがかかることを注意深く避けるのだ。声に出してよむだけで笑いがドカンと起きるようなナンセンスな絵本の場合は、絵本の言葉に乗っかって声のボリュームを大きくしたり、絵本をめくる速さも速めてみたりして、変化をつけてみることもある。絵本の世界を表現するというよりも、絵本の力を信じて、それに乗っかっているという感覚に近い。

私には待っている瞬間がある。絵本のよみ語りや昔話のストーリーテリングをしていると、ぴーんと糸の張りつめたような状態がやってくることがある。それは、よみ手である私と聴き手である子どもたちが同じくらいの集中力でおはなしの世界に没入していることを意味している。特に、語り手の記憶と声だけで語るストーリーテリングの場において子どもたちは、私の目と口に視線を注ぎ、じっと固唾を飲んで聴いてくれていることが伝わってくる。語っているのは自分自身でありながら、語りという〈場〉に集まった子どもたちの力で語らされていると感じる瞬間は稀なことだ。その成立条件は、語る昔話自体が自分のものになっていることだと思う。素話で語ることになるので、十八番のレパートリーはそう多くは持てない。ストーリーテリングは絵本のよみ語りよりずっと難易度は高い。

現時点で難なくストーリーテリングできる昔話は、ロシアの昔話絵本『おだんごぱん』(福音館書店)ただ一つである。なぜ、語ると約10分かかる昔話を何も見ずに語ることができるのか。自分でも不思議なことだが、幼少期繰り返しよんでもらった昔話はたやすくそれができるようだ。きっと、その言葉のリズム感が身体に残っているのだろう。よんでもらった時の部屋の明るさと暗さのコントラストも、私に絵本をよんでくれた祖母の声のトーンも、この昔話絵本を通して真空パックのように保存されている。子どもたちの前で繰り返し語る時、私が昔話に没入した時間は脳内で何度も再現されているように思われる。それと同時に、目の前の子どもたちと一緒にお話を楽しんだ時間の記憶がどんどん上書きされていくのだろう。結局私は、一番幸せな瞬間を何度でもまた味わって、それを誰かと共有したいだけなのかもしれない。けれども、知らないお話に目を輝かせてくれる聴き手にもっとたくさん物語を届けるために、自分のレパートリーを増やしていきたいと思っている。

12月、地域の交流スペースで大人の方を前に絵本をよみ語る機会があった。その空間には、集まった方たちがまっすぐに絵本に向き合っている姿があり、とても頼もしく感じた。絵本を楽しむことに、子どもも大人も関係ないようだ。


#PS2021


<参考文献>
・せたていじ再話、わきたかず絵『おだんごぱん』、福音館書店、1966年。

<参考ホームページ>
・NPOブックスタート
https://www.bookstart.or.jp/

・絵本学会
https://ehongakkai.com/about/01.html