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芝川と見沼田んぼを地図で探る

前回に続いて川をテーマにということで、今回は埼玉県中南部を流れる芝川について地図データを利用しながら探ってみたいと思います。

なぜ芝川かと言いますと、母校がさいたま市立芝川小学校なのですね(笑)学校の前に見沼代用水の西縁(にしべり)が流れ、後ろに見沼田んぼと芝川が流れていました。
幼稚園まで長野県の松本に住んでいた私は、毎日マスが泳ぐようなキレイな川で遊んでいたため、芝川を最初に見た時の衝撃は忘れられません。

『これはドブだ…クサすぎる…』

昭和50年代の芝川は「死の川」を代表する河川の一つでした。

月日は経ち、実家に帰った時に見る芝川にはコイが泳いでいます。それでもやはり汚いです。誰も川で遊んだり釣りをしたりする人はいません。(いたらスミマセン)
環境省の令和元年度公共用水域水質測定結果を見ますと、芝川の生物化学的酸素要求量(BOD)は基準値で8mg/Lとなっており、お世辞にもキレイとは言えません。

それはさておき、芝川は一体どこからそのまったりとした流れが始まっているのでしょうか?
QGISを利用して国土数値情報の河川データを読み込みます。
そして、源流付近を確認しますと…

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あれ?変な角度で曲がってますね…

wikipediaには芝川の源流は「埼玉県桶川市末広2丁目を発する流れ」と書いてありますので、この右折している手前あたりのようです。
右折先の川は「名称不明」となっていますね。

空中写真を拡大して確認してみますと、この先は暗渠となって北北西の方に続いているようにも見えます。右折している川はどこにも見当たりません。

どうやら芝川の源流は川ではなく都市下水路、雨水や生活排水が集まって成り立っているようです。東京都のような下水道台帳マップがあれば確認できそうですが、桶川市はまだ公開していないので正確には分かりません。

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芝川の源流、あまり感動がありませんでした…

渋谷川のようにはいかないものですね。

せっかくなので明治時代に作成された「迅速測図(じんそくそくず)」を見てみたいと思います。明治13年から19年にかけて当時の陸軍参謀本部が作成した「迅速測図」は、QGISで利用することができます。WMS(Web Map Service)と呼ばれる方式で、農研機構(国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構)が公開しています。

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芝川に沿って水田が広がっていますね。のどかそうです。
色別標高図を見てもほとんど大地が削られた後が見えませんので、湧水なんかを集めてチョロチョロ流れていたのかもしれませんね。

明治時代より昔、江戸時代の芝川はどうなっていたのでしょうか?やはり湧水を集めて江戸湾の方向に南下していたのでしょうか?

詳しくは川口市が作成した「母なる芝川」をご覧になっていただければと思いますが、ここでは「見沼たんぼ」にフォーカスして地図データを使って確認してみたいと思います。

埼玉県のサイトによると、見沼たんぼは大昔、東京湾の海水が流れ込む入江だったそうですが、入江が後退し、荒川の下流が土砂で次第に高くなり東京湾と分離した沼や湿地になったと書かれています。見沼の由来は三つの沼の「三沼」のほか、「御沼」や「箕沼」など諸説あるそうですが、いずれにしても相当大きな沼地帯でした。
デジタル標高データを見ながら、昔の見沼を再現してみました。精度はまったく保証いたしません。

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そして、「徳川家光は、財政的基盤としての水田確保のため、伊奈半十郎忠治に見沼田圃を灌漑用水池とするように命じました。1629年(寛永6年)、忠治は見沼の両岸の最も狭くなっているさいたま市(旧浦和市)大間木の附島と川口市の木曽呂との間に堤を築きました。この堤は、長さが8町(約870m)あったことから八丁提と呼ばれています」となっています。
なるほど、確かに八丁堤(八丁堀ではありません)の存在は知っていました。

それでは八丁堤があったとされる付近の地形を確認してみましょう。基盤地図情報から数値標高モデルをダウンロードしてQGISで表示してみます。
段彩図を作るとテンションが上がってきます!

どうやら、赤丸の辺りに八丁堤はあったようですね。

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拡大して距離を計ってみましょう。

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たしかに870メートルです。
400年近くの時を経ても土木工事の証は残っているのですね。

さて、「見沼たんぼ」に戻りましょう。
時は流れて、「8代将軍吉宗は、幕府の財政改革(享保の改革)のため、井沢弥惣兵衛(いざわ やそべえ)に見沼溜池の新田開発を命じました。1728年、(八丁堤を切って)見沼溜池を干拓し、代わりに利根川から見沼代水西縁・東縁(延長85km)を掘って水を引くことにより、見沼は田圃として生まれ変わりました。」とあります。そしてこの新田の真ん中に排水路として掘削してできたのが芝川ということのようです。(参考文献:見沼田圃の位置及び現状、歴史,埼玉県)

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おぉぉ…芝川は人間が掘って作った川、いや排水路だったのですね。

1844年に作成された東都近郊全図を確認してみました。かなり大きな新田ができあがったようです。そして、新田の南から流れる川の名は「見沼悪水ヲトシ 芝川」と書かれています(見出し画像参照)。
詳しい資料が見つかりませんでしたが、おそらく見沼の最奥部まで掘削をしていって、桶川付近の湧水を集めて見沼に注いでいた川を繋げたのではないかと考えます。

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出典:下谷御成道(江戸) : 紙屋徳八, 弘化元[1844],早稲田大学図書館
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_00615/index.html

見沼代用水は利根川から水を引いていることは小学生の頃から知っていました。水がそこそこキレイでしたし、秋になると水位が減るため、その理由を先生に聞いた事がありました。お米の収穫が終わる秋は田んぼに水が不要になるため、利根川からの水量を調節していたそうです。

人間ってすごいですね。

余談ですが、落水した時の見沼代用水は中々楽しい川で、昭和50年代はフナやコイ、時々ナマズなんかが釣れました。一度だけウナギ取りの仕掛けをしているおじいさんに会ったこともありました。今は落水期に減水することはしないそうで、少し寂しい気がします。

それでは、最後に見沼代用水も地図データで確認してみます。
QGISのプラグイン「Qgis2threejs」を使ってみましょう。

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大宮付近を拡大してみます。左が見沼代用水西縁、隣が芝川です。
見事に台地の縁に沿って流れていますね。

井沢弥惣兵衛さんはわずか半年で見沼代用水の灌漑工事をしたそうです。恐るべし徳川幕府。素晴らしい土木工事。驚くべき測量技術です。
井沢弥惣兵衛さんの偉業については、見沼代用水土地改良区の「弥惣兵衛と見沼代用水」が詳しいのでぜひご覧になってください。

今回も最後までご覧になっていただきまして、ありがとうございます。
次回は川から離れる予定です。

QGISやデジタル地図に興味をもった方は、ぜひ拙著をご覧になってください。
その問題、デジタル地図が解決しますーはじめてのGIS」(ベレ出版)

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使用した地図データ
・地理院タイル(全国最新写真)、国土地理院、https://cyberjapandata.gsi.go.jp/xyz/seamlessphoto/{z}/{x}/{y}.jpg
・河川データ、国土数値情報、
https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-W05.html
・地理院タイル(淡色地図)、国土地理院、https://cyberjapandata.gsi.go.jp/xyz/pale/{z}/{x}/{y}.png
・基盤地図情報ダウンロードサービス(数値標高モデル)、国土地理院、
https://fgd.gsi.go.jp/download/(会員登録が必要)
・迅速測図、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)、http://aginfo.cgk.affrc.go.jp/ws/wms.php?

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