父と私と、阪神タイガースと。
あれは2003年だったか、2005年だったか。
三宮の駅前は、阪神タイガースのリーグ優勝に沸いていた。
阪神グッズに身を包んだ人たちで溢れ返り、異様な熱気に包まれている。
私は待ち合わせをしていた友人とどうにか合流し、早くこの場から離れようと足を進めていた。
すると、阪神の法被を着た見知らぬおじさんに、いきなりジェット風船を押し付けられた。
「これ、ふくらましといて、六甲おろし歌い終わったら、飛ばしてや!」
おじさんはそう言い残すと、次々とターゲットを見つけては、風船を配り歩いていく。
いやいやいや、ちょっと待って。
私たち阪神ファンでもなければ、六甲おろしなんて歌ったこともないんですけど。
なんなら阪神が優勝したことさえ、ここに来るまで知らなかったくらいなのに……。
念のため断っておくが、関西で生まれ育ったからと言って、誰もが阪神ファンだというわけではない。
「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれないが、関西圏(特に大阪〜神戸間)においては、その常識は通用しないように思う。
「関西人やったら、阪神ファンに決まっとるやろ」という暗黙の了解が街全体で成立しているからだ。
だからといって、阪神ファンを強制しようという悪意があるわけではない。
ただただ純粋に、阪神を愛しすぎて、盲目になっているだけなのである。
そんなわけで、不意に巻き込まれることになった私たちだったが、あえて拒否するほどの理由もなく、言われるがままジェット風船をふくらまして、六甲おろしが流れるのを待つことにした。
阪神ファンの自負など1mmもないくせに、阪神ファンの父から英才教育を受けただけのことはある。
♪チャーンチャーチャチャチャチャンチャーン
と馴染みのある前奏が聞こえてくると、自然と歌い出せてしまう自分に、思わず笑ってしまう。
老若男女が入り混じり、阪神ファンもそうでない人もお構いなしの大合唱が終わると、「阪神、優勝おめでとうー!」の歓声とともに、カラフルなジェット風船たちが、青空へと吸い込まれていった。
*
かつて、私が小さかった頃。1990年代のことだ。
父は仕事帰りに、同僚たちと甲子園へ観戦に行っては、えんぴつやら人形やら、何かしらのトラッキーグッズを買ってきてくれていた。
私はべつに阪神ファンではないので、喜ぶそぶりを見せた覚えはないのだが、帰りが遅くなった免罪符のように、少し照れながら渡してくるのだ。
阪神戦があれば、必ずテレビのチャンネルはサンテレビ(阪神戦が放映されるローカル局)にセットされる。
父ほどではないが、母も阪神ファンなので、3人家族の我が家では、いつも私がチャンネル権争いに負けてしまう。
当時は、スマホもなければ、サブスクなんてものもなかったので、御飯時に阪神戦が重なれば、「延長しませんように」と願いながら、試合が終わるのを待つしかなかった。
それなのに。
ある日、父がテレビで阪神戦を見なくなっていることに気がついた。
いつの間にか、観たいテレビをいつでも観られるようになっていたのだ。
もちろん、それは私にとって喜ばしいことなのだが、なんだか少し引っかかる。
「なんで最近、野球見ないん?阪神ファン、やめたん?」
と父に聞くと、
「そんなわけないやん。せやけど、僕が観たら阪神負けよるから、見るんやめてるねん」
と、少し寂しそうに笑っていた。
……なんだ、そのわけのわからない理由は。
父が観ていようが観ていまいが、阪神が弱いことには変わりないだろうに。
父の心情はサッパリ理解できなかったが、好きなテレビが見られるようになったのはいいことなので、まぁよし、としておくことにした。
*
そんな阪神がようやく“アレのアレ”を達成した。
要は、日本シリーズで優勝したのだ。
苦節10年どころか38年だそうである。
そういえば、少し前に父と電話していたら、
「阪神がアレしたから、いま阪神vsオリックス観とんねん」
と、うれしそうに話していたことを思い出す。
そのときは、単に父が歳のせいで言葉が出なかっただけかと思い、“アレ”について深く考えることはなかったが、後日、岡田監督があえて“優勝”という言葉を使わずに、“アレ”と濁していたことを知る。
「優勝、優勝と言いすぎて、選手に過度なプレッシャーを与えないように」との配慮であるとともに、過去に優勝目前で取り逃したトラウマから、“アレ”と言い換えるようになったそうだ。
「夢を口にしたら、叶わなくなってしまう」という、ある種のジンクスに縛られていたようにも見え、「自分が観なければ勝てる」と信じて、テレビ観戦を控えていた父の姿と重なった。
夢は口にすれば叶うというけれど、はたしてそれは本当なのだろうか。
ふたりの根底にあるのは、ただひたすらに優勝を願う、熱い想い。
昭和の男の美学を垣間見た気がした。
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