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窗辺茶話(そうへんさわ) 其の壱 承前

こんにちは、ロックンロール三輪そうめんです。ロックも好きだけど、あらゆるお茶を愛してきた徒然話を連載で書いていこうと思います。

ちょうど今日は旧暦2月28日、本当の利休居士の命日なのでこの日をスタートにしました。

まず、窗辺茶話の名前の由来から。
※窗辺とは窓辺、まどべ、窓際の意味です。
幼い頃、仲の良い従姉妹と『まどべのきっさ』という名前の喫茶店を作って、おままごとをして遊んでいた記憶が濃厚に残っています。
当時、自宅の前にお洒落な喫茶店がありました。(80年代のお洒落で白が基調のインテリアだったような)
なんとなく、その喫茶店が2人にとっては大きな憧れで、イメージしたのが『まどべのきっさ』でした。
ネーミングとしては喫茶が最後に来る体言止めで不思議なんですけど、このフレーズが今でも好きです(笑)

そんなこともあり、@madobekissaという名前でもSNSで活動してます。

日本茶は毎日のんでいましたが、小学生の時レストランで飲んだアールグレイにビックリして、お茶って知らない味があるのだと発見!!紅茶、中国茶、台湾茶、学名カメリアシネンシス以外のお茶(ハーブティーや麦茶など)を10代20代はあらゆるお店を回って飲みまくり、30代になって憧れの茶道も習い始めて…いつも私の隣にはお茶の存在が伴走しておりました。

お茶との出会いはやはり幼少期から母が大好きな深蒸し煎茶でした。静岡のスッキリしたお茶を母は好んでいます。
急須から注ぐお茶が今ではペットボトルにすり替わり、一般的ではなくなっている現実に驚くばかりですが、いつも適当に淹れる母のお茶は薄かったり濃かったりするものの、実家に帰るたびホッコリ温かな気持ちになります。

日本茶というとお煎茶!と思うのも実はごく最近の話です。抹茶を中国へ留学した僧侶たちが中世に持ち込んで数百年、江戸時代の中頃に明の国から煎茶が持ち込まれ、庶民にも嗜まれるようになってきたようです。
煎茶道が発生したのもこの頃で中国の詩文を学ぶ文人達がこぞって中国趣味として贅を尽くし親しみました。
一般庶民が茶を嗜みはじめたのもこの頃ですが、広く普及したのは明治以降になるのでしょう。

さらに、こんなに緑の綺麗なお茶がいつでも飲めるのは保存技術の発達した昭和以降では無いでしょうか。

こう思うと茶の歴史の趨勢は目まぐるしく、急須から注ぐお茶の文化があっという間に遠のいたのも不思議なことでは無いのかもしれません。
ただ、丁寧に入れた温かな日本茶を美味しく思う気持ちは私の中に染み付いていて無くならないものだなとしみじみ感じます。

さて、話は全く真逆の方向に向かいます。

千年近く前の中国ではこんな詩が読まれました。季節は桜が咲く少し前…

寒夜   杜秉(南宋)

寒夜客来茶当酒  寒夜客来たりて 茶を酒に当つ
竹爐湯沸火初紅  竹爐 湯は沸きて 火初めて紅なり
尋常一様窓前月  尋常一様 窓前の月 
纔有梅花便上同  わずかに梅花有りて便すなはち同じからず

(三輪そうめん訳)

凍てつくような寒い夜に客人が来た。

普通なら酒をだすところだが、わざわざこの寒さに出かけて来くるのだから真面目な相談だろう。

冷静に話してもらうために、酒ではなくて温かく香りの良い茶を出そう。

箱火鉢に掛けた釜が湯気を立てたころ、ようやく炭に赤々と火がついた。

窓辺から見える白く輝く月はいつもと変わりない。

茶を点てながら客人と語らい、そのうちに問題解決の糸口もみつかったため緊張した空気も緩んだ。

ふと窓の外を見たら、梅の花がわずかにほころんでいることに気が付いたのだった。

 ※典拠とか関係なく意訳ですから専門家の先生お許しください。 

南宋の時代(1127~1279)の茶は日本の抹茶に近い飲み方がされていたそうです。
(その飲み方は日本に残ったという不思議もありつつ…)

裕福な庶民にも茶が浸透してきた時代でもあり、酒と同等、客にもてなすものとして供されました。
茶は心を落ち着かせ、相談事もゆったりとしたなかで解決したことでしょう。
また、本当に香り高く味わい深いお茶は酔ったような気持ちになるときもあります。

淹れ方は変われども茶によって心がほんのり豊かになることは千年来変わっていないのです。

コロナ禍で心がざわめくこの頃、お茶の世界に誘われてステイホーム中、リラックスした時間を過ごしませんか。

そんな旅にこれからご案内したいと思います。
お茶にまつわるアレコレ。

窗辺茶話の始まりです。

三輪そうめんのお気に入り日本茶セット

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