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彼女はいつも気怠いシーシャの香りを纏っていた

水曜の午後3時。この時間に吸うシーシャが一番美味しいんだと、彼女は言う。

僕には全く理解ができなかったけど、毎回午後休を取って会いに来てしまう僕も随分この煙に脳を侵され始めたのかもしれない。

トルコランプの薄明かりと外の陽に照らされる窓際の席。

そこが彼女の特等席だった。

そして決まってミルクティーのシーシャを頼む。

僕はタバコも酒もダメでー

彼女いわくタバコとは違うらしいが、どうにもあの煙を体内に入れることがひどく禁忌的に感じて、ゴポゴポと音を鳴らし吸われる奇妙な形のボトルをぼんやりと眺めていた。

彼女とはもう知り合って2年になる。


2年の付き合いなのに、お互い名前も知らない。


最初に出会ったのはクラブだった。

連れがいたが、僕は酒も飲めないし乗り気じゃなかった。

トイレに行く振りをして帰ろうとしたところ、彼女にぶつかってしまって、そこから2人で抜け出した。

彼女も友人と来ていたらしいが特に問題なかったらしい。

『女の子と2人で抜け出す』なんてシチュエーションを『クラブ』で行うなんてことが僕に訪れるなんて思ってもいなかったし、今となってもなぜそうなったのかいまいち思い出せない。

僕の頭の引き出しにはそのあとのプランなんて当然なく、あてもなく夜の栄の街を歩いた。

ドン・キ・ホーテのキャッチをかわして、テレビ塔の横を抜けて、飲み直す気にもホテルに入る空気でもなく、缶コーヒーを買って、まだ整備される前の久屋大通の公園に入ってぽつぽつと話をした。


「お酒、苦手なの?」

「え?あぁ、僕?うん、そんな飲めなくて。クラブも友達に連れられて仕方なく。騒がしいところ苦手でさ」

「そうなんだ」

「え、と、君は?」

「普通」

「そっか。飲めるのはすごいなぁ。クラブとかは、よく、行く?」

「いや、そんなに。でもああいう場所は、自分が溶けていなくなる感じがするから、嫌いじゃない」

「溶けて、いなくなる?」

「騒がしくて、眩しくて、オスか、メスか、みたいな場所じゃない。個々なんて見てなくて、精々容姿で判断されるくらい。ティンダーが飛び出して来たのと変わんないと思ってるから」

「それは・・・すごいね」

「本当の音楽好きもいるとは思うけど。でも、大半が女の子持ち帰りたいだけでしょ。男漁りもいるか。そうやって、一晩の寂しさを埋めたい人の集まり。可愛いよね、だからみんな溶けてぐしゃぐしゃになっていく場所。嫌いじゃないよ。あぁ、寂しがりは他にもいるんだって思えて」

「・・・」

「ね、家近い?」

「タクシーなら・・・でも僕そういうつもりじゃ」

「わかってるよ。わかるから、行ったし、言ってるの」



それから僕たちはタクシーをつかまえて、家に行って、深夜の面白くもない通販番組を垂れ流しにしながら、肩だけ触れ合う距離で話をして、添い寝をした。


何もせず、ただ夜が明けていった。

普段飲まない酒と普段ない温もりに少しばかり深い眠りについて、起きたら彼女はいなかった。

そして代わりに、時間と、場所の指定がされた紙が一枚。


それが水曜の午後3時。このシーシャの店。

もう恒例になって2年になる。

シーシャなんてものが存在することを僕は今まで知らなかったし、僕が普段どんな仕事をしているかも全く聞かずに平日の、しかもど真ん中の午後を指定するとは、何を考えているんだろう。

僕は彼女の自由奔放さが少し羨ましかった。本当に相手が嫌がることはしない、その微妙な絶妙なギリギリのラインは学校のどの授業で学ぶことができるのだろう。

それでも僕たちは名前を知らない。どこで働いているかも、何をしているかも、お互いの生活もなにも知らない。

話すのはいつも他愛のないことばかり。

彼女のことを知りたいけれど、聞いてはもやもやと漂う煙に消されてしまう。あなたは何をしている人で、何歳で、いや、そんな上部のことはもういいか、何を考えていて・・・


それでも僕は、この他愛のない、言ってしまえば中身なんて対してない話をただただして流れていく時間が心地よくて、少しずつ沈んでいく陽を見つめながら微睡んでしまう。

「私がシーシャ好きなの、なんでだと思う?」

「え?単純に、味が好きだからとかじゃないの?」

「不正解!」

ゴポゴポ、と音を鳴らし、ボトルの水が揺れる。

陽に照らされて、水面の影が、床に、揺らぐ。

吐き出された煙で彼女の顔が一瞬見えなくなり、僕は、なぜかひどく不安になった。


もやもやと煙が漂う。

空間を支配していく。

甘ったるい、ミルクティーの、気怠いそのミルクティーの香りが、僕の鼻腔をくすぐる。


「溶けちゃいたい」


煙が完全に消えた時、その代わりというようにぽつりと発せられた一言。


今まで見たことのない表情でそう言って、その日それ以上僕たちが話すことはなかった。

彼女は何も話さなかったし、僕は何を言っていいのか分からなかった。

ただうつむきながらゴポ、と音を立てるそれを、温度調節のために店員が無情にいじる。

それだけの時間が続いて、それは2年間の中で1番長い時間に感じた。


そうして彼女は、次の週から店に来なくなった。


次の週も、その次の週も、待てど待てど彼女は来なかった。

店員に尋ねても首を横に振るだけでなにもわからない。


連絡先すら知らない関係なものだから、こうなっては、どうしようもない。

そもそも、この状態でよく2年も続いたものだ。

溶けてしまいたい、と発した彼女は、何を想って僕にそれを伝えたのだろう。

どうすればいいのだろう。

悩んだ末に、僕は散々突っぱねて来たシーシャを注文した。

ミルクティーで、1台。


出て来たそれは彼女の前にあった時とは全く違うモノに見えて、なんだかとても恐ろしいものに見えて、今からこいつと向き合わねばならないのかと一種の緊張が走った。


彼女がやっていたように、ゴポゴポと音をたて吸ってみる。

それはもう散々で、むせるわ煙は出ないわで、帰ろうかと思ったが、店員が駆けつけレクチャーをしてくれたので逃げ出すことは叶わず再度向き合うことになった。


ゴポ、と音をたて、少し怯えたようにボトルの水が波をうつ。

煙を吐き出すと、懐かしい甘ったるい香りがした。


2年間毎週空間を共にしたミルクティーの香り。

人間の脳は香りを一番記憶するらしい。

厄介なものを記憶づけて去ってくれたものだ。


僕は、彼女が好きだったのだろうか。

トルコランプの薄明かりと外の陽に照らされる窓際の席。

そこに気怠げに座り、甘ったるいミルクティーの煙を纏う、名前も知らぬ寂しがりやの彼女のことが、僕はー


煙を吐き出すと、なんだか自分の中の想いまで吐いて出ていくような気がして身体が空っぽになっていく気分になる。

彼女の想うそれとは違うかもしれないが、溶けて、いくような気がした。


店を出て、家までの道を歩く街中でミルクティーの香りを感じた気がした。

ーーが、それが彼女だったのか、自分が纏っていたものなのか、初めてのシーシャで少しばかり頭がくらくらとしていた僕にはわからなかった。


僕には、わからなかった。


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