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TCGでの言語化と論理と直感


私は機械学習で学士を取り、昨今のAIブームにおけるAI研究者でない人間としての財産は機械学習でできないことを知っていることだと感じている。道具を使う際にその道具でできることを知っていることはもちろんであるが、それでできないことを知っていることも大きな財産である。ここではTCGでものごとを評価し上達するためのツールとして言及されることが多い言語化について考察する。言語化というのはAIほどではないにしろその性能を本質のわかっていない人に過大評価されているツールである。そのツールを実際に世界にあるように正しく認識したとき、真に使いこなせるものだろう。

言語で語れることの限界

例としてカードを評価するツールとしての言語化を考える。私たちができるカードの評価の二つの側面について述べたい。曖昧性と相対性である。カード評価はただ一つの事実を述べるものではなく、曖昧な広がりを持っている。そしてまた相対的で一意的な数値化のできないものである。

そもそもカードを評価するとはどういうことなのか。TCGで言語化という単語が使われるのを見ることは多い。この言語化という言葉は本来は含意しない論理的であるという意味を含意した文脈で語られていることが多い。

言語化と言う場合なんらかの理由付けを言語により記述することを示す場合が多いからだ。物事の理由とはその結論に至るすじみちであり、それすなわち論理であるということだろう。

なるほど、ある盤面の状態、例えばゲーム開始時の手札が7枚の状態から土地を1枚置いて取ることのできる選択(呪文を唱えないことも含む)をゲーム終了時まで起こりうるもの全てを記述すればそれぞれの選択がどのようにゲームに影響を与えどの程度勝ち負けに影響したかを記述することができよう。これは論理的手続きに基づいてカード評価を行い言語化する手順と言えるだろう。

ただし、だから論理的に起こりうる事象を全て言語化可能だというのは誤りである。それを実行する手順が存在することとそれを実行可能なことは別であるからだ。例えば1から100000000000までを数える手順が存在することは疑いようがないだろう。だが1から100000000000までを実際に数えることはできない。仮に私が今から100年生きるとして、1から100000000000を数えきるには毎秒30以上の数を数えなければいけないがそんなことはできないからだ。

これと同じようにゲームにおいて起こりうる状況のその全てを記述し論理のみによって理由付けをすることはできない。

あのカードはしかじかの状況でこのようにして強いという記述はさも論理的に見えるかもしれないが曖昧なものである。そこに至る道筋は明晰に語られるものではなく、脳というブラックボックスが吐き出した広がりのある曖昧さを持っている。

「このカードが強い」と「この四角形は青い」という記述には似た形の広がりがある。

この青を見よ。

では次にこの青を見よ。

これらの青は違う青さの青である。どちらの四角がより青いだろうか?この青さの違いを記述することは可能か?

少なくとも「青い四角」と言ったとき対象としてどちらも包含されるだろう。青いという言葉がただ一つの青を示すのではなく、不明瞭な広がりをもつ集合(ファジィ集合)に属す色を示す。

カードが「強い」というのは色が「青い」というような不明瞭な広がりを持っている。単に強いというのではなく、しかじかの状況で強いという記述は明瞭であるように感じるかもしれない。だがそのカードがルール上実現可能な唯一無二のその特定の状況で勝ちに貢献することのできるカードでないのであれば、やはりその記述は不明瞭な広がりを持っている。

ちなみに私がこの二つの青い四角を作成したツールでは256段階の青さの設定が可能である。あなたは画像を保存して特定のツールを使えばこの青さが256段階のどこにあるかを調べることができる。なので、256段階(あるいはその段階の間)に帰着させることで、その青さについて論理性を伴った言語により語ることができるという反論があるかもしれない。

ではマジックのカードを256段階でも100点満点でもよいが数直線上に点数をつけることを考えてみよう。

独立した青の青さを語ることは難しいが、二つの青を繋げればその青さの違いがわかるだろう。先ほどの青い四角を並べてみる。

こうするとこれらが異なる青さを持つことがわかり、どちらがより濃いだ青いだと述べることができるだろう。

このように二つのカードを並べてどちらが強いと論じたことは誰もがあると思う。なるほど、256段階の青さを持つ色を並べてその青さを論じ並べれば青さの数直線上への写像が可能であるように、例えば256種類のカードの強さを比較してソーティングすることはできるだろう(そのソーティングが合っているかはさておき)。数直線上への写像が同じように可能な気がしてくる。

あるカードの強さは特定の状況における勝利貢献度をその状況の発生確率により重みづけして平均を取ることにより数値化できるだろう。特定の状況の発生確率には、合理的なプレイヤーがそこから動かない地点(ナッシュ均衡点)を採用することが考えられる。

確かにカードの強さを論理的に語る手順は存在するだろう。だが既に述べたように、手順が存在することとそれを実行可能であることは別である。

カードを評価することはカードプールや環境を定義することである。どのフォーマットかは言えないが、カードに点数をつけてくれなんていうのは無理な要求だ。

《渦まく知識》、マジック:ザ・ギャザリング 日本公式ウェブサイトから

《渦まく知識》はプールなしにカードの強さを語ることはできないといういい例だ。レガシーを代表するカードでありながら、パウパーでは全然使われていない。

つまりカード評価の指標を作成するためにはプール全体から起こりうる状況を整理しなければならない。曖昧な手続きなしにやるなんてことは無理な話である。

組み合わせの多さから最善手を導出する手続きが存在してもそれを実行できないものの例として良いものに囲碁や将棋がある。ある手の良し悪しを判断する手順として、その手の次に相手が取りうる手を列挙、さらにその次の手を列挙・・・というようにゲームの終わりまでを列挙すれば、最終的に勝ちにつながる手(あるいはそれが存在しないか)がどれかを調べる手順が存在する(全探索)。

だがこの手順を実行するプログラムを書いても、それは計算過程が多すぎて私が生きている間に終わらないし、その過程を記録できるようなメモリも存在しない。囲碁の存在する盤面のパターンは10の170乗通り程度[1]で宇宙に存在する原子は10の80乗個程度[2]なので宇宙に存在する原子全てを使った巨大なメモリを作成しても記録しきれない。

とはいえ論理的な手続きを実行する機械であるコンピュータに実装されたAIが人間のプロの棋士に勝っている以上、やはり論理的であることがゲームの強さの条件に感じるかもしれない。だが、人間のプロを超えるAIは深層学習の応用の結果である。深層学習が画像処理分野で結果を出しブームになる以前もゲームAIの研究はされていた。その中で「この状況であればこうする」という大量の条件を人間が与えるアプローチは散々試されながらもAIが人間のプロに勝つことはなかった。では人間の棋士に勝った深層学習が何をやっているかというと、人間の脳を模した学習能力の高いブラックボックスに大量の事例を見せることで学習させている。深層学習モデルが何を見ているか解明することは簡単ではなく、ブームの中で熱い研究テーマの一つになっている。人間に勝ったAIが持っているのは圧倒的論理力ではなく、今のところ圧倒的直観力と言ったほうがしっくりくる。AIはそこに至る論理的手順が人間にわかるように記述することができなければ、よりよい手がないことを数学的に証明しているわけでもない。

囲碁と比べ組み合わせ数が大きいか小さいかは別として、マジックでもデッキ構築のパターンとプレイングのパターンの積は膨大な組み合わせであり、やはり論理的な手続きのみで実際に取るべきプレイを導出するのは不可能だろう。

マジックにおいて「論理的である」ということは、いかに論理的手続きによりできる部分を行うか、あるいはいかに論理的な手法により近似をするかの度合いであり、二値的に論理的であるなんていうことはありえない。もし論理的か直感的かでプレイヤーを分類するのであれば全員が直感的である。

もしあなたが自分は論理的にマジックをしていると思うのであれば、それは単なる気のせいだ。

論理的になるための第一歩は、自分がまったくもって論理的でないことを知ることである。論理は全てを解決できる万能ツールではない。しかし直感を補強しよりよい判断をもたらしてくれるツールである。

言語化可能なことと不可能なことがあることを知り、その曖昧な集合を意識することではじめて世界はあるように見える。

論理で直感を補強する方法論についてはまた今度。

参考文献

[1] Number of legal Go positions, http://tromp.github.io/go/legal.html
[2]
宇宙の原子数https://ja.eferrit.com/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%95%B0/
[3]
L.ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳、哲学探究

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