見出し画像

掌編 「月蝕ブルース」

 冬休みの初日、店番をしていると、鼻を真っ赤にして、熊野がギターを買いに来た。熊野はクラスメイトではあったけど、話をするのはそれが初めてだった。
 ギターを買いに来たとは言ったものの、熊野は特にほしい型や憧れのギタリストがいる訳でもないらしく、ずらりと並んだギターを前に固まった。聞けば、ギターはまったくの初心者で、この分野に関しては何も分からないという。
 そんな彼女におあつらえ向きの一本を選ぶのは、中々骨が折れた。最終的には予算から適当に見繕ったものを、熊野自身が気に入って、それを選んだ。決め手は、青色ということだった。
 熊野は買ったばかりのギターを担いで、うれしそうに帰っていった。彼女が店に入ってきてからずっと、俺は熊野の頬の傷が気になっていたが、それも結局、聞けないままだった。
 泣きはらした赤い目と、寒さに凍えた赤い鼻。そして、頬の傷。その時の俺は、どうせ熊野が転んだんだろうと思っていた。いつも冷静な熊野が、転ぶほど興奮するなんて珍しいこともあるもんだ、と。
 それ以来、熊野と話す機会が増えた。もっぱらギターの相談だ。といっても、楽器屋の息子なだけで何の楽器も演奏できない俺には、知り合いの素人バンドに紹介したり、教本を勧めるくらいしか出来ないのだが、熊野は事あるごとに俺を頼ってきた。ギター選びに一時間ほど付き合ってやったので、案外そんな所で懐かれたのかもしれない。あとは、熊野がギターを弾いていると知っているのは、学校で俺ぐらいだからか?
 熊野の上達の様子は、常連のバンドマンから漏れ聞いた。元々狭い町で、自宅以外でアンプを繋ぐなら、町に一軒だけあるライブハウス兼スタジオに行くしかない。当然、スタジオを借りるなんて、学生には痛い出費であるはずで、一人で借りる訳がない。熊野は俺が紹介したバンドと仲良くしており、その連中とスタジオに出入りしているらしい。すると、スタジオに入り浸っている他のバンド仲間にその様子が伝わり、余計な気を回した奴らが、俺に熊野のことを報告に来るのだ。近頃は作曲も始めたと聞いたが、本人からは何も聞かされなかった。寂しくないといえば、嘘になるが、それも当然だと自分を納得させた。所詮、俺は楽器屋のただの息子なのだ。

 春休みになると、指に包帯を巻いた熊野が店に来た。
「弦って一本だけ買える?」
「あー、買えるけど。もしかして切れた?」
 熊野は指を見せながら、笑う。
「雑に扱ったら、ギターに怒られた。
「そっか。で、切れたのは?」
「一番、細い奴」
 とりあえず、店にある分を全部出した。
「へー、弦にも種類があるんだ」
 何、当たり前のことを言っているんだ、と思ったけれど、思い返せば、熊野はギターを買っていって以来、弦の交換をしていなかった。
「どうする? 値段は似たようなもんだけど」
 熊野は、うーん、と悩む。
「前と同じやつがいいんだけど、どれか分かる?」
 と言われて、俺も、うーんと唸った。客のギターにどんな弦を張っていたのかなんて、把握していない。腕組みをして、二人でしばらく悩んでいると、熊野は俺の顔を見て笑った。
「どうした?」
「いや、初めてギターを買いに来た時もこんなだったなって」
「なるほどね。確かに」
 そう言って、二人で笑い合った。俺は熊野の笑顔が好きだ。嘘がなくて、本当に楽しいときにしか笑わない。熊野の笑顔は眩しくて、彼女が笑うだけで辺りが明るくなるような気がした。
「いいや。六本、全部変えることにするよ。売り上げに貢献ってことで」
 帰り際、熊野は一枚のチケットをくれた。
「今度、ライブするんだよ。良かったら、見に来て」
「ん? ああ、楽しみにしてる」
 俺がそう言うと、熊野は面映ゆい感じで、頬を掻いた。

 ライブは、小さなバンドの割に盛況だった。観客の多くは知り合いや、このスタジオに通う他のバンドマンなのだろうが、大いに盛り上がっていた。熊野たちの息の合った演奏は、例え拙くても、充分に楽しかった。
 内容は所謂コピーバンドで、お世辞にも上手いとは言えないが、ステージに立ったメンバーはみな、心底楽しそうに楽器を鳴らす。どこの世界にも、そういう人たちはいて、腕がなくとも、人を楽しませることができる。それを才能というのかもしれないが、もっと身もふたもない言い方だと、それは雰囲気がいい、とだけ言うのかもしれない。
 そういうバンドの音楽はどこか澄んでいて、入り込みやすい。勿論、ぐらぐらと煮えたぎる、情念の塊みたいな音楽をやるバンドもいて、それはそれで好きだけど、熊野たちみたいな純粋さは、やっぱり貴重なのだと思う。汚れてなくて、シンプルで、眩しいくらいに楽しい。
 耳慣れない曲の多いライブではあったけれど、その二時間足らずは楽しく過ぎた。客席から漏れ聞こえる感想も、おおむね好評で、自分が褒められている訳じゃないのに、俺もうれしくなった。

 ライブ後、楽屋に顔を出すと、熊野がうれしそうに出迎えてくれた。
「高尾くん! ステージから見えてたよ!」
 興奮冷めやらぬ熊野にせっつかれて、思わずたじろぐ。鮮やかな頬の色や、星空を流し込んだような瞳を意識してしまい、演奏をほめたいのに、ああとか、うんとか、つまらない返事しかできなくなる。
「おー! それが熊野ちゃんの彼氏?」
 俺に気付いたボーカル担当が、茶化すように言った。
「もー! 片瀬さんは黙っててください」
 熊野は、彼女とじゃれ合うように言葉を交わした。いつもは見れない熊野の一面に、俺は、こういう顔もするんだな、なんて思った。実際は、彼氏っていう言葉に面食らって、どぎまぎしてただけだ。
「高尾くん、着替えるから、ちょっと待ってて。一緒に帰ろうよ」
「え、いや、いいよ。この後、打ち上げとかあるだろ?」
「今日はみんな、お酒飲むんだって。だから、仲間外れにされた。そういうのなしの打ち上げも、また次の日にやるからさ」
 外で待ってて、と早口で言われ、楽屋から追い出された。ちょうど片瀬さんと呼ばれていたバンドボーカルが、煙草を吸いに出る所で、
「熊野をよろしくね」
 と背中を叩かれた。かなり痛いんですけど。

「高尾くん、こっち」
 と言われ、出たのはベランダというより、物干し場に近かった。
「曲を、作ってるんだ」
 帰り道、その曲を聞いてほしい、と誘われて、俺は熊野の家に来ていた。温和そうな両親に顔を合わせ、俺はぎこちない挨拶を交わした。リビングには立派なピアノが置いてあり、熊野の音楽のルーツを見た気がした。
 俺はギターを担いだ熊野と、星灯りのベランダに腰を下ろす。
「けっこう古い家だと思ったでしょ。元々はおじいちゃんの家なんだ。畑もおばあちゃんがやってるし。まあ、おかげで、こうして堂々とギターが弾けるんだけど」
 熊野の家の周りは畑だらけで、見渡す限りに隣家はない。そのおかげか、星空もくっきりと見えた。
「いつも、ここで弾いてるのか?」
「うーん? 冬はさすがに中で弾いてるよ。でも、家の中でやるとうるさいって言われるから」
 それに、この季節は風も気持ちいいし、と言って、ギターを撫でて、チューニングをを始めた。
「チューナーは?」
「大丈夫、私、耳がいいから。昔は、ピアノを習ってんたんだよ」
「じゃあ、作曲もピアノでやるの?」
「音は、ピアノの前で考えたりするね」
 と、会話はそこで途切れた。熊野は真剣な顔でギターをいじる。俺はチューニングが終わるのを黙って待つことにした。
 ぽろぽろとこぼれるように響くギターの音色。弦が弾かれて、音の粒がきらきらと飛び出すのが見える気がした。凛々しく、つるりとした粒は、ぼくと熊野の間を埋めていく。それが青色に見えるのは、熊野のギターが深い青色をしているからだろうか。
「高尾くん、私が初めてギターを買いに行った日のこと、覚えてる?」
 熊野はギターをいじるのをやめ、俺の方を向いた。
「覚えてるよ。鼻を真っ赤にしてただろ?」
 俺の冗談を、熊野は受けなかった。真剣な目で俺を見つめる。
「……私、あの日、泣きながら、ギターを買いに行ったの。初めてお父さんにぶたれたのも、あの日だった」
「……殴られたのか?」
 この家の通り古い人だからね、と熊野は自嘲する。
「今まで我慢してきたけど、私、やっぱり音楽がやりたいんだ」
 やっと言えた、と呟いて、空を見上げた熊野が小さく叫ぶ。
「見て、高尾くん」
 俺は、熊野が指差す先を見る。ピックを握ったままの手の先では、半分に欠けた月が赤く染まっていた。
「月蝕だ」
 暗い橙色の半月を見て、熊野は嘆息する。今まさに影に飲み込まれようとしている月は、まるで開きかけの扉のように見える。月を染める赤い光は、あちらから漏れて、
「綺麗だね」
 隣に座る熊野の頬が、赤く染まっているような気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?