BFC5落選展感想 51~60

 リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。

 一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。

 以下、感想です。

51、「タイムマシン渋滞」鵜川龍史

 ショートショート。アイデアを重視する文芸のジャンルだと思うが、一方で、それがブンゲイとしての弱みにも思えた。
 というのも、非常に感想が言いにくい。タイムマシン渋滞というタイトルや、織田信長をモチーフにもってくる明瞭さ、最後のどんでん返しの巧みさなど、好意的な言及に苦労しないのだが、それは恐らく、私だけではなく、ほかの読者も同時に思うことのはずで、わざわざ私が言葉にする必要はないように感じられてしまった。もちろん、それは完成度の高さの裏返しだと思うが、私にとって、ブンゲイは多様な解釈可能性を含んだものであるので、物足りないと感じた。


52、「歌の檻」倉沢繭樹

呪詞なのに、呪いを発動させる重要なフレーズが抜けていて、呪えない。それは呪いではなく、別の何かではないのか。 

 それこそが詩や小説や、言語表現というものではないか、と私は思った。万葉集や古今和歌集などを挙げるまでもなく、言葉は尊いものへ捧げ、供えられる性質を持っていた。

言葉とは不自由なものだな、と感じた。言葉が生まれる以前の世界は、単純だが、幸せな世界だったに違いない。

 この部分の意味がうまく掴めなかった。単純に「昔はよかった」式の話をしているのではないと思うが、それを想像する余地が読者側に乏しかったように感じられた。結論部の「歌の檻」に至るまでの思弁をもっと読ませてほしかったと思う。
 多言語が相食み合う場面など、興味を掻き立てられた。作品に書き込まれたディティールが、既に独特の雰囲気を醸していて、そこを積み重ねていくだけで、もう充分小説になる人の文章だと感じた。


53、「残り火」佐藤相平

 過去にあった出来事をなぞる――それこそ、愛撫する手つきのような作品だと思った。語り手の行動様式や思考が、異物としてではなく、地の文に織り込まれていて、読んでいると心地いい。花火を発砲音と勘違いするという彼の感覚は、恐らく普通とはかけ離れていて、けれど、彼の過去の経験に根差しているのだろう、という想像を掻き立てる。感覚が感覚として、違和感なく、伝わる点も並大抵ではないと思った。
 引っかき傷、痣、そのうち抜ける。などモチーフの連関も心地いい。


54、「Welcome to the world」和泉眞弓

 傷を負った人物が箱庭で過ごし、回復して、外へ戻っていく、という物語の類型があり、思い浮かぶものでは、青年期を題材としたものが多い。
 自我を得るということは、適切に自分の領域を切り分け、包むことだ、と私は考える。社会や家族から自分というものを見出し、切り分けること。むき出しの自分を守るため、安全な、折衝可能な土地をつくりだすこと。ただちに自らが脅かされる領域は、他人にとっても、傷付きやすい領域となる。緩衝地帯は自らに必要なものであり、他人に必要なものでもある。
 一方、今作は素朴な感覚に従っているのではないか、と私は感じた。何らかの障害を持った子どものカウンセリングの話、と読むことができると思うが、茫洋とした文体の朧な印象は、何かを必死に守ろうとしているのではないか。はっきりと言うならば、語り手である「僕」の世界ではないだろうか、と思った。
 強固な世界観を有する「きみ・君」と接していながら、こちらの世界へ招き寄せ「ようこそ」と告げる「僕」は、まず自らの「世界」に「きみ・君」を招き入れたのだろうか。
 人と人の間、社会に入っていくことは避けては通れないことである。その社会性・社交性の世界を何の疑問もなく「世界」と書く感覚は、「僕」の価値観を示しているように思えた。


55、「瞳に住むもの」今村広樹

 短い。この短さなら「春琴抄」とだけ書くが早かった。もちろん、早いだけが小説の魅力ではない。
 一文目、伝聞体。”秋月”とは、秋の夜の月のこと、晴雲秋月となれば、澄み切っていて、汚れのないことの意味になる。満月の丸さ(ただ月ならば、三日月なども考えられるが、こと秋とつけば、中秋の名月をはじめ、満月のイメージであろう)と目の関連があり、また伝聞体であることから、秋月国やそこに住む画家にさほど詳しくない人物が語り手であると分かる。
 二文目、”ある特定の少女”を描き続けている。語り手と画家の距離が近付き、”曰く”と続く。画家のもとを訪れたとも取れ、語り手はジャーナリストか、それに類する(芸術分野の評論家?)人物と推測される。また「たった一人」と言った場合には、絵の中の少女が同一であるという意味と捉えるが、”ある特定の”というのであれば、実在の少女の見当もついているものと見受けられる。
 三文目、”自分の目に住まわせる” 月に住む兎、秋月という語が結びつく。”目を潰した” 暗闇に一点、浮かぶもの。それはやはり月だ。
 ゴッホのえがいたうずまき模様は、彼の眼病に由来すると言われている。月を少女と見立てた画家がいても、おかしくないと思うのだが、それは考えすぎだろうか。


56、「バルセロナ紀行」紺一希

 予言の自己成就、とでも呼ぶべきか。結末は冒頭部に暗示され、事はその通りに進んでいく。
 語り手である「僕」の欲望とは、それだったのではないか。「僕」のキスや愛の囁きも、どこか上の空というか、形式ばっているように感じられた。別れの決断すら、彼女に委ねている。近代小説が目指した、個人の成立と対極の存在が書かれているのではないか、というのが私の読みだ。
 紀行の筆致が滑らかで、地名など情報量が多いが、読みやすかった。


57、「屋根裏」いみず

 自分の安全圏を削られていく暴力を書いた作品だと思った。家を奪われていく場面、どうして、家から脱出しないのか、という疑問は最後の一文で明らかになった。つまり、”自分の領地を切り取”られた人々の語りなのだろう。移民との軋轢の比喩として読むこともできるかもしれない。が、冒頭のホームを歩く女の挿話を考えるに、これはもっと身近なところにある話だと思った。


58、「お告げ」万庭苔子

 それでどうなったのか、という続きが気になる作品だった。お告げを受けるように肉まんを欲し、肉まんを受け取って、そして……?
 占いや予言を”真に受けるのは愚かなこと”と言い切った「わたし」が、実際にそのビビッときた経験に何を思うのか。お告げを受けた瞬間の、センセーショナルな感覚がありありと伝わってきただけに、それを受けて、「わたし」がどうアクションするのか、気になってしまった。
 それはそれとして、口を開けた肉まん、とはいったい……? キャプ画のような、ちょっと裂けて、中の餡が見えている状態なのだろうか、などと想像した。ユニークな表現で、印象に残った。


59、「牛ヶ淵」大竹竜平

 声だけが描写された小説。
 私は騒々しい場所や、同時に聞こえてくる話し声などがかなり苦手で、電話をしている横で会話などされると、そちらに意識がいってしまって、話ができないほどである。しかも、横でされた会話の方も、頭に入ってきていない始末なのだ。
 その経験からいうと、今作は本当に騒がしく感じた(といっても、批判的に言っているわけではなく、作品の魅力・特色として、そういう性質が発揮されている)。
 余談だけれど、メメクス(memex)とは、ハイパーテキストのもととなったシステムの名前と同じようだが、声が文章化され、トピックがどんどんと飛躍していく様は、表現として繋がっているのかもしれない。小説を読んでいるときは、ウィキペディアを潜っていく感覚に近かった。


60、「戦争と我々」加藤明夫

 本当に戦争を知る世代というのが身近にいなくなった時代に突入し、戦後78年にもなる日本にとっては、戦争はどこまでもフィクショナルで、時に悪魔化され、時に神聖視される。
 今作はウクライナやJアラートという現代の用語を散りばめながら、どこかで現代とは位相がズレている印象を受けた。金を重要視する語り手の価値観はバブル期を連想させるし、夫婦の話し言葉もどこか古めかしい。それらは意図されたものだと思うが、一方で戯画化され、作り物めいた印象の方が強くなってしまった。
 ハイライトとなる老婆と果物の描写も同様に感じた。芥川龍之介のオマージュ(と思いながら読んだ)と冒頭で提示される世界観が上手く融合していないのではないか、という印象だった。

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